1980年代の終わりから増え始めた非正規雇用

おそらく、米国は当時敵対していたソ連以上に日本の台頭を恐れたのだと思います。日本の輸出攻勢にあって、米国企業も経済も青息吐息でした。敵はむしろ日本であり、とにかく日本の勢いを抑え、日本を潰せとなりました。

当時、米国ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国(G5)の蔵相が集まって会議が行われました。日本の輸出の勢いが止まらないのは、円が安いからだ、すぐに円を上げろとなりました。これが「プラザ合意」です。

当時は1ドル240円でした。大蔵大臣の竹下登さんは200円まではしょうがないと思ったといいます。それが、あれよあれよと150円台にまで下がってしまった。そして円高大不況になったわけです。

ところが、それでも日本企業の勢いは止まりませんでした。米国の対日貿易赤字は膨らむばかりだったんですね。

そこで米国はさらに攻勢をかけました。日本の輸出が止まらないのは、内需をおろそかにしているからだと言って、内需拡大を迫ったのです。日米構造協議が行われ、関税障壁を撤廃し、大規模公共事業など内需拡大に躍起になりました。

当時、私は中曽根康弘さんに聞きました。「なんで米国の言うことをそこまで聞くのですか?」と。すると彼は、「日本の安全保障を全面的に米国に委ねている。だから聞かざるを得ない」と言うわけですね。

おかげで起きたのが、空前のバブル経済です。内需拡大政策で、地価が高騰。おりしも円高不況に対応するために低金利政策が取られていました。多くの人が銀行からお金を借りて土地を買い、転売する。それでどんどん地価が上がっていきました。

そして1991年、ついにバブルが弾け、日本経済は以降ずっと低迷を続けることになったわけです。

これまた空前の大不況になるわけですが、もはや日本的経営を続けるわけにはいかなくなりました。不良債権処理に手間取る中で、デフレ不況が常態化して、各企業は終身雇用、年功序列を捨てて米国型の能力主義、成果主義に移行していったのです。

同時に、非正規労働者の問題が出てきました。1980年代の終わりから増え始めた非正規雇用は、小泉純一郎首相のときに、規制緩和の流れの中で一気に増えていきました。要は安い賃金で働かせて、業績が悪くなったらすぐに解雇できるようにしたわけです。

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「日本は3周遅れのランナーに落ちてしまった」

日本的な経営から欧米流の経営に代わる流れの中で、日本企業はどうなったでしょうか? 元気を取り戻すどころか、むしろどんどん悪くなっていきました。

リストラの嵐が吹く中で、自分が下手に動いて「出る杭」になったら目をつけられます。社員の誰もが冒険をしなくなり、息を殺して目立たないようにします。上司の言うことには絶対に逆らわない。そんな空気の中で新しいものが生まれてくるわけがないですね。

かつて世界をリードしていたソニーだって、あれだけ世界のシェアを誇っていた東芝やパナソニック、シャープなどの日本の家電メーカーも、NECや富士通などのコンピュータ関連メーカーも、かつての勢いが嘘のように凋落しました。

それはひとえに、働いている社員のモチベーションが下がり、全員が守りの姿勢に変わってしまったからでしょう。