1皿3個の唐揚げを3皿頼んだ7人客に返した店員の“神フレーズ”

寓話<三杯の茶>

石田三成はある寺の童子どうじ(寺院で仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年)をしていた。

ある日、豊臣秀吉は鷹狩りに出かけ、途中、のどが渇いたのでその寺に立ち寄った。秀吉は「誰かいるか。茶を持って参れ」と望んだ。三成は大きな茶碗に七、八分ばかり、ぬるめのお茶を持ってきた

秀吉はこれを飲んで舌を鳴らした。「うまい。もう一杯」。三成はまたお茶をたてて持ってくる。今度は前より少し熱くして、茶碗の半分に足りない量のお茶である。

秀吉はこれを飲んだ。少年の機智に感心した秀吉は、試しに「もう一杯」と望んだ。三成はまたお茶をたてた。今度は熱く煮立てた茶を、小さい茶碗に少しだけ入れて出した。

これを飲んだ秀吉は少年の気働きに感心し、住職に乞い求めて、小姓(武将や大名の側で雑用や護衛の任に就いた武士)として三成を使うことにした。才能を発揮した三成は次第にとり立てられて奉行職を授けられた。

少しの気配りが自分の仕事を生む

哲学者の内田樹は、『日本の論点二〇一〇』(文藝春秋)の中で次のエピソードを披露している。

あるとき武術家の甲野善紀ほか七人で連れだってレストランに入った内田は、メニューに「鶏の唐揚げ」を見つけた。「三ピース」で一皿だったので、七人では分けられない。仕方なく三皿注文することにした。すると注文を聞いたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。

「コックに頼んでそうしてもらいます」

写真=iStock.com/deeepblue
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彼が料理を運んできたときに甲野は彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう」。彼はちょっとびっくりして「はい」と答えた。

「月に一度くらい、そう言われます」

内田はこのエピソードを紹介した後、人間は「放っておくと賃金以上に働いてしまう」存在だと書いている。そのウェイターが、彼のできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しをしたことをそう表現したのだ。

ほとんどの仕事は代替可能な仕事である。とくにアルバイトなどはそういう面が強い。しかし、そこに自分のできる範囲で気配りや機智を加えれば、それは自分の仕事──自分だからこそできる仕事──に化ける。

戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』(ディスカヴァー携書)

以上は、三成に焦点をあてた読みとり方である。これとは別の読みとり方も可能である。それは「三成という男を見いだした秀吉の逸話」という読みとり方である。

どんな才能も──とくに近代以前の社会であればなおのこと──良い目利きによって見いだされない限り、市井の中に埋もれてしまう。秀吉が二杯目の茶を所望したとき、秀吉の心の中には三成を試すという気持ちはなかったであろう。「もう少し茶が飲みたい」という単純な思いしかなかったに違いない。しかし、二杯目の茶が一杯目の茶よりも少し熱く、少なめの量だったことに感心し、三成を試そうとして三杯目の茶を所望した。

三成の機転に気づく秀吉がいたからこそ、この寓話は成り立つのである。

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