江戸の大名屋敷を金箔瓦が飾っていた

「江戸天下祭図屏風」をよく見てみよう(図版2)。右隻の中心には紀伊徳川家の屋敷が大きく描かれる。その屋根に注目すると、金色の点が直線状に塗られているのがわかる。軒丸瓦のきまるがわら瓦当がとう金箔きんぱくが押されている。いわゆる金箔瓦である。すべての屋敷が金箔瓦を葺いているわけではなく、江戸の大名屋敷を金箔瓦が飾っていた。この様子は「江戸図屏風」でも同じである。

【図版2】「江戸天下祭図屏風」の紀伊徳川邸(画像=『江戸 平安時代から家康の建設へ』)

金箔瓦は織田信長の安土あづち城が先駆とされ、豊臣期に各所の城館で用いられた。城館だけにとどまらず、豊臣家が拠点とした京都や大坂、そして伏見などの都市には金箔瓦で装われた大名屋敷が建てられていた。戦国時代から寛永期頃までは金銀の産出量が多かったことも背景にあり、都市の中では金で飾られた、豪華な建物がよく見られた。金装飾は権威の表出だった。

江戸時代初頭の江戸は金で装われた都市だった

江戸城にも金箔瓦を葺いた建物があったのだろうか。存在したかもしれない。しかし江戸城中心部の発掘調査ではそのような確証をつかむに至っていない。とはいえ、城下の屋敷地に金箔瓦が葺かれていたことは発掘事例が語っている。道灌堀外側の大道通りの発掘調査によって、4分の1ほどの破片になった軒丸瓦には金箔があった。おそらくは明暦の大火以前の徳川御三家の屋敷に葺かれていた瓦であろう。また東京大学構内からも出土している。加賀前田邸の金箔瓦家きんぱくがわらやである。城下で金箔瓦が葺かれていたとすれば、江戸城内でも使用されていたと考えたい。

近年の発掘調査からは、江戸時代初頭の江戸は金で装われた都市であったことがうかがえる。新時代を迎え、将軍の居所として江戸はさらなる転換を迎えていく。