一方、支社長の田中とは夜の会議を、定期的に開く。「アサヒが提供するのはビールだけじゃないんだよ、加賀美さん。ビールを通して感動を届けるんだ。感動がなければアサヒじゃない」。田中は、相変わらず熱かった。加賀美よりも半年遅い09年9月に着任。本音で話せる男である。「工場が海外移転するのではと、心配している人もいるよ。絶対に閉鎖はないと、明言しておいた」。地元の声を田中は正確に伝えてくれた。加賀美も、工場の現状をありのままに話す。「心配ない、もう復興が見えてきた」。

5月9日には社長の泉谷直木(7月からアサヒグループホールディングス社長)は、福島工場の生産再開について、5月中の仕込み再開、6月中の詰め作業(充填)を実施すると発表。工場が作成した工程表に沿う形となった。工場現場はとたんに活気づく。

ところが、である。6月に入り事態は急変。6月3日、アサヒは福島工場の生産再開を、延期すると発表したのだ。工場関係者の奮闘により製造設備の復旧は進み、予定通り再稼働できるメドはついていた。しかし、地震により崩落した外壁の修復ができていなかったのである。工場の隣を走る国道4号線からは、むき出しの鉄骨が丸見えだった。「食品工場なのに、これでは、信頼性を損ねてしまう」という声が本社で上がっていた。再稼働の最終決定を行うのは、あくまで本社だった。

社長の泉谷は福島工場まできて、延期について社員に説明した。その後で、「私からも一言」と予定にはなかったが、加賀美もマイクの前に立った。

「申し訳ない。本当に……。あんなに頑張ってくれたのに、残念です」

繁華街の地下の店に、2人の男がいた。加賀美は悔しさと脱力感とに襲われていた。田中にしても、「延期はいつまでだ」「海外に移転するのか」などの問い合わせを、この日だけで何件も受ける。「ここで負けちゃダメだよ。チーム福島なら、ここを乗り越えないと」と田中が言う。2人は泣いていた。いつものことだった。だがこの夜、男の眼から涙がこぼれたのは、悔しいからではない。ママが歌う「YELL」が、あまりに沁みたからだった。