支社長とともに喧嘩し、励まし合い、涙に暮れた夜
「支社長がおまえでなければ、俺たち工場はここまでこられなかった」
「やっと言ってくれたね、加賀美さん。あなたのその言葉を、僕はどんなに待っていたことか……」
「泣くな、田中! 俺たちはずっと、“チーム福島”だったんだ。これからだって……」
雪が降り出しそうな夜だった。郡山駅前の繁華街。地下1階にあるその店には、客はもう常連の2人しかいない。アサヒビール福島工場長の加賀美昇と、同社福島支社長の田中晃。2人の心は触れ合い、この夜も互いに涙している。震災発生からの9カ月間、2人は頻繁に会い、議論が白熱して、時には言い争うこともあった。「(人事)ラインが違うのに、本気で怒ったのはおまえにだけだ」「僕も同じです」などと言い合い、やがては涙に暮れる。
細面のママはマイクを握り、泣き虫の男たちのためにいつもの曲を入れる。いきものがかりの「YELL」。かつて東京で歌手を目指した彼女は、歌唱力が要求されるこの曲を力強く歌い上げる。復興に取り組んでいる2人を、応援するために。
大阪府出身の加賀美は、京都大学農学部を卒業して1982年に入社。田中は一期後輩だ。この頃、アサヒは経営危機に直面していた。が、87年に大ヒット商品「スーパードライ」が生まれて、2001年にアサヒはビール類で業界トップへと上り詰める。2人は厳しい時代を知る世代であり、加賀美は09年4月から、福島工場長。工場長は初めてだった。
3.11のそのとき、加賀美はすぐに机の下に潜った。工場長室はなく、大部屋の窓際に席があり、部下とともに落下物から身を守る。揺れがおさまると、トラックヤードに福島工場で働く300人強を集合させた。このうちアサヒビールの社員は160人ほど。残りは、物流および生産委託、併設するレストランなど別会社の社員だった。それぞれに責任者はいて、組織はそれなりに分かれている。