「蚊帳の外」をつくらないようにすべき
瞬間的にこうした状態になることはよくあります。ただ、このバランスのまま延々と会話が続いていくと、Cさんを孤立させてしまいます。AさんやBさんに悪気がないことはわかります。ただ、このとき「この会話にはもうひとり、ゴルフをしない人がいる」ことに意識を回せるかどうか。それが「孤立させない気配り」ができるかどうかになるのです。
ある程度2人でやりとりしたら、AさんかBさんどちらかが、「Cさんはゴルフ、始めないんですか」「何か他のスポーツやってるんですか」と、Cさんに話題を投げかければいいのです。すると、例えば
A「先週の○△オープン、観ました? いい試合でしたよね」
B「ですよね。まさか、プレーオフになるとは思わなかった」
C「テニスを少々。でも、この歳になると、なかなか上達はしませんね」
A「そうですか。今、大坂なおみ選手がすごいですよね」
C「ええ、試合の中継、全部観ちゃいましたよ」
B「これで、テニス人口がまた増えそうですよね」
と、Cさんも参加することができて、会話のバランスが修正されていきます。
気配りと言っても難しいことはありません。会話のバランスの偏りに注意すること。偏りに気づいたらすぐに修正すること。つまり、「ひとりぼっち」をつくらないこと。「ひとりぼっち」を放っておかないことです。
ここではたまたま3人のケースを例に挙げましたが、4人、5人と会話の人数が増えていっても同じことです。大勢で盛り上がっているときこそ気配り目配りをして、「蚊帳の外」の人をつくらない配慮をする。2人だろうと、3人だろうと、もっと大勢だろうと、気持ちよく会話をするために必要なのはやはり、人としてのやさしさと思いやりなのですね。
お酌をすることで孤立状態から救い出すことができる
会話のバランスをいち早く察知して話に入れずに蚊帳の外にいる人に話を向ける。こうした目配りは、お酒の席での“ある行為”に通じるものがあるように思います。そのある行為とは何か。グラスが空いている人がいたら、「まあ、一杯」とお酒を注ぐ――お酌です。
やれお酒の強要だ、女性蔑視だ、パワハラだと、何かと否定的に見られがちな日本のお酌文化ですが、本来のお酌には、こうした周囲への気配り、目配りを欠かさないという日本人のよき伝統とメンタリティが込められていると思うのです。
例えば、立食パーティーなどで周囲の話に入れず、ぽつねんと立ち尽くしている人に、「○○さん。グラス空いてるじゃないですか」とお酒を注ぎながら声をかけることで、孤立状態から救い出すことだってできます。
お酒を注ぐこと以上に、話に入る糸口をもたらすのがお酌の役割でもあるのです。テーブルで会話から外れてしまったお客さまがいらっしゃったときは、すかさず「お酒、おつくりしましょうか」――私たちはそう心がけています。たとえまだグラスが空いていなくても声をかけます。そうすることが、そのお客さまを会話の流れに呼び戻すキッカケになるからです。
もちろんセクハラもパワハラも許されませんが、孤立しそうな人への気遣いという意味での「本来のお酌」の心得には、社会人として学ぶべきものがあると思うのです。