講による団体旅行——ファンクラブのような組織

講、そして所属した人数についての貴重な史料が成田山には残されている。

文化十一年(一八一四)に作成された「江戸講中在所記」という江戸の成田講の会員名簿によれば、講の数は五百十五講にものぼった。大半の講は二十~四十人ぐらいのメンバーで構成され、総人数は一万七百三十二人を数えた。その家族を含めれば、数万人の規模となっただろう。

講中はその寺社の信徒で組織されてはいたものの、当時の講はいわばファンクラブのような組織で、入退会も自由と見た方が事実に近い。ゆるやかなまとまりの集団であったが、ゆるやかな組織の方が敷居が低くて入会しやすい。

つまり、成田講だけに入会している江戸っ子もいただろうが、高尾講や大山講にも入っている講員も珍しくなかったはずだ。むしろ、ごく当たり前のことだったのではないか。

宗派が異なる寺社に参詣することは現在でも日常的な光景で、そうした事情は江戸も同じである。大半の江戸っ子はご利益があれば、またその評判を聞き付ければ、どの宗派の寺社でも参詣した。そうした江戸の信仰事情を踏まえれば、複数の寺院の講に入っていても何の不思議もない。

写真=iStock.com/BernardAllum
※写真はイメージです

数万人を組織化…講が成田山の経営を支えた

もちろん、江戸っ子数万人が成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いはおのずから異なる。だが成田山としては数万人を講という形で組織化できたことは、経営基盤にプラスになったことは間違いない。

講を通じて参詣を促すことで参詣者が増加すれば、いきおい浄財(寄付金)も増えて経営強化に直結する。

成田山に限らず、どこの寺社も講を活用していた。

講は町や村という共同体単位で結成されるのが普通だが、江戸のような都市では商人や職人仲間単位で組織された講もあった。商人仲間で組織された講としては、魚屋や酒屋のほか、両替屋・札差ふださし(俸禄米の仲介業者)・米屋・材木屋などの講が挙げられる。

職人仲間では町火消で組織された講がある。成田山の山内には江戸町火消が奉納した石碑が今も数多く残されている。成田山を参詣した町火消の講中が信仰の証として奉納したものだ。そうした由緒を踏まえ、今も「江戸消防記念会」が成田山に毎年赴き、木遣きやり歌を奉納している。