エリツィンを激怒させた米国の「二股政策」

クリントン政権は「二股政策」をとった。東欧諸国の中にあるNATO加盟への希求は認める。他方において、どの国をいつ認めるかは細心の注意をはらってロシア外交に波風が立たないように配慮し、かつ、「パートナーシップ・フォア・ピース・プログラム(ppp)」というNATOとロシアとの協調・連絡・調整の枠組みをつくるというものだった。

しかしその最初の大破綻が1994年12月の「ブダペスト暴発」という形で発生した。ごく最近その詳細が国務省の文書公開によって明らかになり、米国の友人からその顚末てんまつが送られてきた。いやはや。「二股戦略」で双方納得していたと思い込んでブダペストに来たクリントンに対しエリツィンがロシアの怒りを理解していないとして暴発したのである。PPPのシナリオを描きすべてうまくセットしていたと安心していたタルボットは、ブタペストに同行すらしていなかった。後日「二度とエリツィンとの会談には欠席しない」と嘆いた由である。

ポーランド、ハンガリー、チェコが加入し…

アメリカは辛抱強く失地回復をめざした。エリツィン政権の下で対外情報庁長官を務めていたプリマコフが96年1月には外相に就任、彼との交渉を通じて翌年7月のマドリッドでのNATO首脳会議において、ポーランド、ハンガリー、チェコの3カ国が招待され、1999年に冷戦終了後最初の東方拡大が実現したのである。

97年のマドリッド会議は日本外交にとっても大きな影響を与えた。1997年7月24日橋本首相が行った経済同友会での演説で首相は冒頭、「冷戦後の国際秩序が、欧州ではようやく形をなし、『大西洋から見たユーラシア外交』という姿を示し始めた今こそ、日本は『太平洋から見たユーラシア外交』を打ち出すべきである」として対ロシア政策、対中国政策、シルクロード外交を打ち上げたのである。

「ソ連邦はもはや存在しないのになぜ存続させるのか」

しかしながら、NATOの東方拡大の動きはそこで止まらなかった。これまでに3つの大きな山があった。第1の山は、2004年3月のバルト三国と旧東欧諸国4カ国の同時加盟であった。旧ソ連邦を構成するバルト三国のNATO加盟についてロシアが感慨を持たないことはあり得ないが、ともあれロシアはこれを甘受した。