何者でもない自分として会話に参加していると、ぼやっとしているうちに何を答えたらいいかわからず沈黙してしまったり、聞かれてもいない個人的なことばかり話し続けることになる。その場にふさわしくない本音をもらしてしまうことにもなる。そうなると、雑談に水を差すことにもなりかねない。
だから、自分自身に色をつける。自分はこの色と決めて通してもいいし、この集団では青、こちらでは白というふうに、その場に応じて変えるのもよい。
その色がすぐに定着するわけではないので、雑談のなかで楽しみながら実践を重ねていくのだ。
▼最初は一般受けしやすいキャラ→オリジナリティあふれるキャラへ。
重い話を重いまま話す人は損をする……
私くらいの年齢になると、友人との話題のほとんどが健康と年金と親の介護だ。健康診断や人間ドックの結果がどうした、年金だけで将来暮らせるのか、親がボケはじめた、介護施設が見つからないなど、どうしてもその手の話になる。
実際にはどれもシビアなテーマだが、たいていおもしろおかしくエピソードを披露し合い、笑い合っている。それなのに、ときどきそこがどんな場面かをあまり考えず、話を振られたとたんに重いテーマを重いままにぶちまける人がいる。
何か聞かれると暗い表情を浮かべ、しかしながら待ってましたとばかりに深刻な話を深刻なトーンで語りはじめる。境遇をぼやいたかと思えば、日本の社会保障制度はおかしいなどと社会への不満をぶちまけたりもする。皆で楽しむべき雑談を一気に自分ワールドに持っていってしまうのだ。
さらに、この種の人は周囲にあれこれ質問してくる。いい情報を持ってないかと探ったり、「こういう場合、君ならどうする?」などと聞いてくる。
これでは雑談ではなく相談だ。会話はどんどん重苦しいものになってしまうわけだが、このように話の展開や誰かのひと言がきっかけになって、他愛ない話が急に現実的な話にすり替わるということは雑談につきものだろう。
もちろん、真剣な相談ごとには真剣に答えたほうがよい。人としてそれは当然の行為だ。とはいえ、誰かが周囲にはどうにもできないような重い話をはじめてしまい、止められなくなっているようなら、その深刻なトーンを軽減させてあげるといい。そこでポイントになるのが戯画化だ。