浮気者とヤキモチ焼きの迷惑夫婦
ちなみに、建久3年(1192)4月11日、頼朝は7つになった貞暁の乳母夫を決めようと、武蔵横山党の小野成綱・京武者出身で右筆の藤原重弘・坊さんで右筆の一品房昌寛に次々と命じたが、3人が3人とも、
「御台様のおヤキモチがめっちゃスゴイので、怖いっす」(御台所の御嫉妬甚だしきの間、かの御気色を怖畏するが故なり)
と言って辞退してしまい、大江景国にお鉢が廻って来て、来月貞暁を京都に連れて行くよう命じられている。景国の祖父、藤原景通は前九年の役(前九年合戦)の激戦、黄海の戦いで大活躍して源頼義七騎武者の随一と言われた(『陸奥話記』・『吾妻鏡』同日条)のに、孫は源家累代の家人でありながら(あるがゆえ?)頼朝の浮気の後始末を押っ付けられる。
迷惑な夫婦である。少し話をズラして、先のことを記すと、この貞暁は僧となり、39年後の寛喜3年(1231)2月22日、46歳で高野山に入滅した(同年3月9日条・6月22日条・『明月記』同年3月3日条)。『尊卑分脈』は「自害」と記すが、頼朝の子孫の中では、彼が最も長寿となったのである。
頼朝・政子の困った夫婦に話を戻そう。
まァ、当時は一夫多妻である。まして自由恋愛が当たり前の貴族社会で生まれて育った頼朝にしてみれば、本妻以外に妻妾を持つことには、
「何が悪いの?」
と思っていたのかもしれない。
そして政子の立場からすれば、一夫多妻だろうが、頼朝が京都生まれの京都育ちだろうが、我慢ならないものは、我慢ならないのである。
結局、頼朝と政子は、現代でも世間によくいる、しょーもない浮気男とヤキモチ焼きの勝ち気な女のカップルなのである。
内乱の中で頼朝を支え続けたのが北条氏だった
問題は2人が権力者であったことであり、ゆえにこの2人は周囲にとって極めつけに迷惑な夫婦だったのである。
心配させたり悩ませたり怒らせたり悲しませたりばかりしていたが、頼朝にとって政子は大切な人であり、そして北条氏は大切な家族であったのだろう。
思い起こせば、頼朝が平時打倒の挙兵を命じる以仁王の令旨を一緒に読んだのも、藤原邦通の描いた絵図を見ながら山木兼隆邸攻撃作戦を共に練ったのも、北条時政だけであった。そして時政の嫡子宗時は石橋山敗戦で死んだ。
伊豆下向に際し人を付けてくれた高庭資経の心遣いを頼朝は忘れず、24年後、平家方であった資経の子実経を父の恩を理由に許している(元暦元年3月10日条)。
30騎に満たざる兵力ではあったが、10年に及んだ内乱の中で、頼朝が最も無力であった時、彼を支え続けたのが、時政率いる北条氏であったことを、他の誰が忘れても、頼朝は忘れなかったはずである。