本来は権限を持っていない内大臣が、閣外から関係閣僚全員との意見調整を行うことは、極めて困難です。したがって、閣内に木戸の方針に同調して意見調整を行う協力者が必要でした。

一方、宮中グループとともに和平交渉に動いたとされる海相の米内光政は、軍人は「和平への転換」といった政治的決定に介入すべきではないという考えでした。米内は「政治家」(軍人ではない文官程度の意味)と認識する木戸から和平交渉への転換を持ちかけられることで、それに同調。木戸をサポートしつつ、鈴木や外相の東郷茂徳との意見調整を行ったのです。

ちなみに東郷は回想録でこうした意思決定に関係があったと主張していますが、この点に関しての東郷の回想には矛盾も多く、実態としてはそれほど深く関われてはいないことが指摘されています。

そして一九四五年六月二十二日の御前会議で、ソ連を仲介とする和平交渉への転換が決定されます。

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ソ連の参戦で日本は降伏を決意した

日本にとって、ソ連は日本と戦争状態にない唯一の大国でした。この時点でも、降伏は考慮されておらず、目指されていたのはあくまでも交渉による和平であり、そのため、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託すという流れができたわけです。

一九四五年七月二十六日には、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席の名において、日本に降伏を要求するポツダム宣言が発表されますが、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託していた日本は、当初ポツダム宣言を「黙殺」してしまいます。

しかし、ソ連はすでに一九四五年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後三カ月以内の対日参戦をアメリカに約束しており、日本の和平交渉を仲介する意思はまったくありませんでした。それを知らない日本は、ソ連との和平交渉が継続していると考え、結果として無条件降伏を選択しない(できない)状態にあったわけです。

八月六日には広島に原子爆弾が投下されます。それでも、わずかな可能性に期待して、降伏についての話し合いは八月六日~八日の間には行われていません。そして、八月九日未明のソ連参戦が判明してから、ようやく九日午前中に、降伏についての話し合いが始まります。長崎に原子爆弾が投下されたのは、その会議中のことでした。

広島への原爆投下が、降伏決定に大きな意味を持っていたというイメージは広くいきわたっていますが、原子爆弾の投下だけでは八月上旬というタイミングで降伏が話し合われた可能性は極めて低く、ソ連の参戦があったからこそ、日本は降伏を決意したわけです。