即時和平派と反対派の対立

ポツダム宣言の受諾による無条件降伏=終戦は、昭和天皇の「聖断」によってなされたと、一般的には理解されています。しかし、だとすれば、なぜ「聖断」は二回も必要だったのかという疑問が残ります。

「聖断」に至るまでには、即時和平派と反対派の主張がぶつかっていたとされますが、実は、降伏をめぐる議論の参加者全員、降伏自体に反対していたわけではありません。「国体護持」の確信度合いで議論が分かれたわけです。

即時降伏派は、ポツダム宣言で「国体護持」が可能だと考えました。したがって、「国体護持」を条件とすることで、降伏を受け入れるというスタンスです。一方、即時降伏反対派は、ポツダム宣言で「国体護持」はできず、「自主的武装解除」「戦争犯罪人の自主的処罰」「保障占領の範囲極小化」により、軍隊を保全してこそ降伏は可能となると考えていました。

彼らの判断の背景にあるのは、部下の暴走をどのように抑えるのかという懸念でした。降伏を発表すれば、軍が暴走して内乱状態となる危険もある。しかし、「国体護持」以外の三条件が整えば、降伏受け入れも可能となると考えた即時降伏反対派は、逆にそれが認められなければ、本土決戦によりその確証を引き出すべきだと主張したのです。

皇居
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終戦には昭和天皇の「二度の聖断」が必要だった

この「聖断」に至る過程において、木戸と昭和天皇は当初、問題を国務と統帥の分離とみていました。外相である東郷茂徳が即時和平を主張し、軍部が本土決戦を主張しているという図式でとらえていたわけです。即時降伏反対派が懸念する部下の統制という問題は、国家方針ではなく執行過程の問題であるので、各国務大臣に任せるしかないわけです。

そして八月九日深夜の御前会議において、第一回の「聖断」が下されます。天皇は国務と統帥の分離を調整し、国務に重点を置いて降伏を決定します。しかし、本質的な論点は部下統制という執行過程の問題であったため、この「聖断」は議論を収束させる効果を持ちませんでした。天皇が国務を支持するというかたちで降伏を決定しても、実際には軍首脳部の「部下の統帥に責任が持てない」という懸念は全く解消していないわけです。

一方、第一回の「聖断」を受けて、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外相案でポツダム宣言を受諾する回答が連合国に対してなされましたが、これに対し、アメリカ国務長官のバーンズを中心に作られた、いわゆる「バーンズ回答」が打ち返されます。これは、天皇や日本政府の国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に「従属する」という内容でした。このバーンズ回答によって、改めて「国体護持」に疑念が抱かれ、再び議論が紛糾します。