だが、誰もが変わらなくてはならない大転換の時代に、変わろうとしない、変われない人々が数多く存在する。

彼らは、なぜ変われないのか?

なぜ生きるのかということを、真剣に問うていないからである。

人間は、まったく偶然に生を享ける。父親と母親が偶然に出会い、その偶然から自分の人生が始まる。決して自ら生まれたいと望んだわけではないのに、まったく偶然に人生がスタートしてしまうのだ。この偶然性を素直に受け入れて、人生をただただ面白おかしく生きようとする人もいるだろう。そういう人は、おそらく変わろうなどとは考えない。

だが私は、偶然に自分が生まれたということが悔しくて仕方がない人間だ。望んで生まれてきたのではないということは、神か、自然の法則かはわからないが、何者かによって自分の人生がコントロールされていることを意味する。にもかかわらず、人間には生きる目的すらわからない。これが悔しい。この悔しさゆえに、私はこの世で徹底的に自分の思うことを試してやろう、徹底的に自己を打ち出して死ぬまで暴れてやろうと思うのである。

私がこうした感覚を深めたのは、三菱化成工業(当時)に入社する前、イスラエルのヘブライ大学に留学していた時代である。この時期私は、砂漠に足を運んだ。そこで受け取ったのは、「この世には何もないということがあるのだ」という感覚だった。そして、何もない砂漠の中に立っていると、心臓の鼓動を明瞭に感じる。自己の存在を非常に重く、濃密に感じる。満員電車に揺られて何百人の中の一人である状態では、絶対に受け取ることのできない感覚である。

そして、自分以外の唯一の存在、すなわち太陽に、絶対者の実在を感じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いずれも砂漠から生まれた宗教だが、これらの宗教が一神教である理由がまざまざと理解できるのである。

砂漠に立っていると、絶対者にコントロールされている人生に、なんとかして自分なりのフィードバックをかけたいと激しく思う。平易な言葉で言えば、何かを残して死にたいと強く思うのである。