目先の優しさはかえって危険なだけ

さて、サステナビリティ、共存などと言っておきながら矛盾することを言うようだが、世界は大競争の時代にある。

私は多神教の国である日本から、一神教の国イスラエルに渡り、さらにイタリアに渡って、一かゼロかの感覚で生きる狩猟民族の末裔たちと渡り合ってきた。その経験を通して、シェアホルダーのためだけに働くのではなく、ステークホルダーのために働かなくては意味がないと考えるに至ったわけだが、これは多分に多神教的、日本的な感覚だろう。

一方で私は、自分の存在に対する悔しさという、極めて一神教的な感覚にも強くバイアスをかけられている。その両方をデュアルに意識しているわけだが、そこから湧き上がってくるのは、激しい怒りの感情である。なぜ世界は、サステナビリティを本当の意味で志向できないのかという怒りと同時に、なぜ三菱ケミカルはBASFやダウ・ケミカルのような世界のトップメーカーになれないのかという、怒りがある。私の中には、なんとかしてこれらの企業と対等な立場に立ちたいという強烈な野心がある。

人は、いくつになっても「怒れる人間」でないとダメだと思う。怒り、悔しさがあるから変えよう、変わろうとする。

ところが、現代の日本人は「優しい」という言葉が大好きだ。この大競争の時代に、この言葉ほど始末の悪い言葉はない。手近なもの、目の前のものに対する優しさほど危険なものはない。

グローバルな世界には、危険なオオカミがうようよしている。その中に優しい子羊を放してみても、餌食になるだけだ。私がこの時代に求める社員像とは、目の前の存在に対する情緒的な優しさを持った羊のような人間ではなく、怒りの感情と同時に、論理的思考に根差したグローバルな愛、ジェネラルな愛にあふれた、“あぶない”ヤツなのである。

※すべて雑誌掲載当時

(山田清機=構成 尾崎三朗=撮影)