ヨーロッパで合法化が進んだ宗教的理由
こうした自殺幇助に対して、それは死をビジネスとするものだという批判がある。安楽死が合法化されていない国の人間がスイスに来て、自殺幇助によって安楽死を遂げていくことについても、「自殺ツーリズム」ではないかという声もあがっている。だが、スイスでは、自殺幇助を禁止する方向には向かっていない。
しかも、自殺幇助の対象となる人間の範囲は拡大されており、安楽死の要件をはるかに逸脱してきたようにも見える。それは、自殺を望む人間に、その機会を与えているだけであるようにも見える。ではなぜ、その方向に進んできたのだろうか。一つは、自殺に対する宗教的な禁忌の存在である。
オランダにおける安楽死について取材した三井美奈氏は、『安楽死のできる国』(新潮新書)のなかで、キリスト教には自殺を神に対する罪悪とする考え方があるとする。
中世のヨーロッパでは、罪ということが強調されたが、自殺者は教会で葬儀ができないばかりか、遺体は街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。そうした伝統は19世紀まで生きていたという。「生命は共同体に帰属し、個人が勝手に処分できないものだった」のである。
こうした宗教的な禁忌への反発があり、そうしたなかから、「自分の意思を死の瞬間まで貫いて生きる」ことをめざし、安楽死の合法化が進められてきたというのである。
日本には自殺に対する禁忌がない
たしかに、その面はあるだろう。安楽死が合法化されているのは、オランダをはじめとするベネルクス三国、カナダ、アメリカ、オーストラリアの一部の州であり、プロテスタントが多い国や地域が大半を占める。逆に、カトリックが多いフランスやイタリアでは認められていない。
スイスで自殺幇助による安楽死を遂げる外国人としてはドイツ人がもっとも多いのだが、ドイツはプロテスタントとカトリックが拮抗している国である。ただし、ナチスのことがあり、安楽死が認められるような状況にはない。それでも、ドイツ国民のなかには、それを望む人間たちが少なくないのである。
日本にも、キリスト教は明治以降、カトリックもプロテスタント、さらには正教会も入ってきて、宣教活動を行った。信者の数はさほど増えなかったものの、教育や医療の分野ではその影響は大きい。しかし、自殺を禁じるような考え方も、逆に、死を自ら選択することの自由を確立しようとする方向にも向かっていかなかった。実際、日本の自殺率はかなり高い。
あるいは、自殺に対する禁忌がないということが、日本で安楽死を合法化させようとする方向にむかわない一つの理由かもしれない。だが、それ以上に重要なことは、家族のあり方の違いというところにあるのではないだろうか。
ジャーナリストの宮下洋一氏が自殺幇助の現場に立ち会ったイギリス人女性は、老人ホームに入ることを忌み嫌い、それが自殺幇助を望んだ大きな動機になっている。年老いても、他人に助けてもらいたいとは思わない。それが嫌で仕方がない。安楽死を望む人々が次々とあらわれ、安楽死が合法化された背景には、そうしたことが関わっているのではないだろうか。