テレビを普及させるための突飛なアイデア

吉田茂首相を筆頭とする朝野の名士が、テレビ放送の開始を祝った。とはいえ、テレビの普及率は、けして高くはなかった。

電化製品のなかでも、飛び抜けて高価だったからである。

これでは、なかなかテレビは普及しない……。

そこで正力は、奇抜なアイデアをもちだした。盛り場や街頭に、テレビ受像器を設けたのである。

1967年6月、街頭テレビで野球中継に見いる人々(写真=foundin_a_attic/ CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

当時の受像器は、かなり小さいものだったが、それでもテレビの魅力を伝えるには十分だった。

特にプロレスの人気は高く、力道山はたちまち国民的英雄になった。

原子力発電を日本で広める

正力に、原子力についての知識をもたらしたのは、橋本清之助であった。

橋本は、大政翼賛会周辺の活動家だったが、大戦後、日本原子力産業会議の初代事務局長を務めた人物である。

橋本は正力に対して、アメリカでは原子爆弾で発電しよう、という気運がある、と教えたのだった。正力は、敏感に反応した。

昭和三十四年五月五日。第三回東京国際見本市が開かれていた。

福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)

見本市の目玉は、実働原子炉UTRだった。

原子炉といいながら、出力は、わずか〇・一ワット。

原子炉を安定的に運転するために出力を抑制していたのであり、実際は百キロワットまでは、問題なく発電できた。

昭和天皇、皇后は、五月十二日に見本市を訪れた。

ドイツ、チェコスロバキア、アメリカなどの特設コーナーを見て回ったあと、天皇は、原子炉を視察した。

天皇は強い興味を抱いたようで、自身で原子炉の周囲に巡らされた柵を取り払い、階段を昇り、炉心部を直接、覗いた。

その後、正力は読売新聞や日本テレビを使った大々的な原発推進キャンペーンを展開し、初代の原子力委員会委員長に就任した。

「国は原子力発電の開発に全力を尽くす。地方自治体は、アイソトープの利用法の開発を手伝っていただきたい」

原子力委員長に就任した直後の発言である。

関連記事
なぜ「強盗慶太」とまで呼ばれたのか…東急創業者・五島慶太のすさまじい経営手腕
「日本で一番、金の遣い方が巧い人物」経営の神様・松下幸之助が最晩年までこだわった"ある構想"
「日本で最も独創的な経営者」阪急電鉄創業者・小林一三が日本で最初に配った"あるもの"
「政治家とマスコミがズブズブのままでいいのか」日本の常識は海外の非常識と断言できるワケ
「NHK大河ドラマでは描きづらい」渋沢栄一の激しすぎる"女遊び"の自業自得