ここで注目すべきは、無料ではなく、「実質」という言葉の意味である。実質無料における実質とは、「今あるものに別のものが最初から含まれている」と見なすことである。

このような意味での「実質」は、ユーザーの行動に関する、ひとつの見方になるのではないか。それを冒頭で述べたパクツイを事例に考えてみよう。

改めてパクツイを考えてみると、意外と複雑であることが分かる。

「注目されたいからパクる」だけではない

ネット時代は匿名の発言であふれている。確かにこのなかから1つぐらいつまんだところで、発言の無害な拝借は許されると考えてしまうことは想像にかたくない。

これまで、小説や音楽など、生産者(作り手)と消費者(受け手)の差異が明確な領域では、作品に共感しても、それを自分のものとして思うことはなかった。簡単に言えば、「わたしとあなた」の間には確たる隔たりがあったということである。

一方、SNSには発信と受信が相互に行われる「双方向性」に特徴がある。

まず、SNSは匿名性が高い空間である。次に、発信と受信、生産と消費の役割の区別が、既存のメディアに比較して曖昧である。そして、あらゆる話題において参入障壁が低く、プロにも簡単にリプライが可能な時代であるため、例えば素人が平気でプロと同等の立場で、プロにダメ出ししたり、反論したりできると思ってしまうような錯覚が生じている。

このように、SNSはさまざまな意味でハードルが低い。しかし、ハードルが低いからと言って、他人のモノを簡単に盗むとは考えがたい。しかしもし自分も同じ意見だと確信していれば、「実質わたし」であると考えていればどうだろうか。たまたまそのユーザーが先に発言したかもしれないが、そう考えていたのは私のほうが先であるかもしれない。

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つまり、「実質わたし」の視点で見れば、「実質わたし」であるからこそ、拝借しても許される、と考えてしまうわけだ。これはある意味、注目されたいがために盗むという説明より、自然ではないか。

他者の意見や考えの中に自分を見つけている

私たちが自分の意見だと思っているものは、実際には他者の考えに影響されたものが多い。それは確かであるが、SNS時代では頻繁に他者の意見に接触しているため、私の意見と他者の意見の境界線が曖昧になっている。そうすると、いつの間にか「私の中に他者の意見を見つける」のではなく、「他者の中に自分の意見を見つけた」と思うようになってくる。