こうした「他者の意見の中に見つけた自分」を、私たちは「実質わたし」と呼んでいるのである。これはある種の錯覚と言えるかもしれない。このように考えれば、パクツイをしたくなるような投稿は、パクツイした人にとっては「実質わたし」の投稿なのだ。
インターネット流行以前の90年代には、他者とは異なる私を自分の中に探すことを「自分探し」と呼んだ。
若者たちは、玉葱を剥くように、剥けば剥くほどなくなっていく自分に狼狽したが、その子どもたちは、SNS時代の中で、他者の意見や考えの中に、いともたやすく自分を見つけてしまうようである。
ゲームをしないのに「ゲーム実況」を楽しむ人たち
この「実質わたし」が、他の領域でも現れていると解釈してみよう。
例えば、Twitch(ツイッチ)等で人気のゲーム実況である。ゲーム実況とは、投稿主がゲームをプレイする動画に、音声解説等をつけながら配信するものであり、若者を中心に、世界的に人気を博すコンテンツの一つである。
ファミコンをはじめとした家庭用ゲームに慣れてきた世代にとっては、ゲームとは自分でプレイするものであり、他人のプレイを視聴するとしても、その目的はゲームの攻略法を知るためのものだった。
しかし昨今のゲーム実況の特徴は、そのような攻略法ではなく、ただ投稿主の実況付きプレイ動画を視聴することにある。実際、筆者の息子も自分がプレイするよりも、プレイ動画の視聴に興じているが、これは中年世代にとっては、理解しがたいものだ。
しかし、ゲーム実況の流行を「実質わたし」の観点からみれば、不思議なことではないかもしれない。中年世代にとっては、他者が「する」ことと私が「見る」ことには大きな違いがあるが、他者の中に「実質わたし」を見るなら、それらは同じことだ。中年世代が思っている以上に、SNS世代にとって、私の体験と他者の体験の境界は、それほどはっきりしたものではないのかもしれない。
ニュースに対しても「見方や解釈」が求められている
この、他者と私の間の境界が曖昧になるという意味での「実質わたし」という感覚は、ニュースへの接し方も変えたようにみえる。「NewsPicks(ニューズピックス)」を取り上げてみよう。NewsPicksは大手の経済ニュースプラットフォームだが、誰でもニュースに対するコメントの投稿が可能であり、とくにピッカーと呼ばれる著名人によるコメントを参照できることが最大の特徴である。
NewsPicksの利用者にとっての醍醐味は、ニュースそのものに触れることよりも、ニュースの見方に触れられることである。情報過多の時代に希少性が有るのは、ニュースよりも、その見方、解釈の枠組みである。