人々は本当にネットに「共感」を求めている?
これまで、ネット上で人々を動かす原動力は、他者の投稿への「いいね」や「シェア」に代表される「共感」であると説明されてきた。
私たちは「共感できる情報」を求めてスマホに向かうと言われるが、果たして本当にそうだろうか。むしろ私たちは新しいニュースにどう反応すればよいか、という手がかりを求め、いつしか自分自身の意見を探すようになり、ついにはネットで見つけた意見を自分のものだったかのように思ってしまう。つまりは自分をオーバードライブ(上書き)しているのではないだろうか。
われわれはこのようなケースを「実質わたし」と呼んでいる。以下では、このことを説明する挑戦的な見方を示すとともに、「実質わたし」の仕組みが機能しているサービス例を挙げ、「実質わたし」をより有効に機能させるための指針を示したい。
共感ではなく「その通りだと思っていた」だとしたら
SNSの投稿をシェアする際に添える言葉は、シェアステートメントと呼ばれる。「その通りだと思う。」といったシェアステートメントは共感を示す言葉であるが、例えば「その通りだと思っていた。」と過去形になるだけで、その真偽が疑わしく感じられないだろうか。
つまり、現在形のときは、他者の意見への「賛同」に強調点があるように感じられるが、過去形になると、自分がそう考えていたのは「いつから」かに強調点があるように感じられないだろうか。「その通りだと思っていた」という過去形の表現は、それは自分があらかじめ感じていたものだ、ということなのだろうか。
このことと関連する極端な例として、「パクツイ」を挙げよう。
ツイッターでは、140字で気の利いたことを述べる投稿に「いいね」が集まるが、そこで生まれたのが「パクツイ」である。
パクツイはその名の通り、他人のツイートを「パクる(盗む)」もので、簡単に言えば無断転用ということになる。断っておけば、「リツイート」は、引用元が明示されているため、パクリには該当しない。
パクツイに見る「実質わたし」とは何か
パクツイやシェアステートメントは、ともすれば他人の言葉を盗んでまで注目を浴びようとする、過剰な承認欲求の現れとして注目されることがある。しかし、パクツイはそのような理由だけで行われるものなのだろうか。
むしろこのような行為は、「実質わたし」の観点から考えたほうが適切ではないか。例えば、携帯電話やインターネット回線契約に際して「実質無料」という文言を目にしたことがあるだろう。実質無料にはさまざまなパターンがあるが、典型的には支払う金額に別の対価が含まれているとして、その対価は無料(ない)に等しいと説明することである。