韓国語の敬語で作られるのは「尊」ではなく「下」
日本語は、敬なる語……言わば尊待が基本で、それ以外は使う場面が限られます。すなわち日本語は、メインの「尊」のためにサブの「尊ではないもの」が存在します。韓国語は、その逆です。この差があるから、日本語と韓国語が敬語法により作り出す「敬」の範囲は、全然違います。
日本語のほうが、遥かに広い、敬で満ちた空間を作ります。韓国語にも日本語にも敬語はあります。どちらにも、尊待と下待、またはそれに準ずる概念や表現はあります。しかし、それぞれの言語の使用によって社会に作られる「空間」は、韓国語の場合は「下」、日本語の場合は「尊」です。
言葉は、空間を作ります。私は、いままで書いてきた尊や下、敬などの概念、及びそれが社会構成員たちによって共有されるプロセスも、言語体系と文化の相互作用によって作られた、その文化圏特有の空間の一種だと思っています。
直接耳には届かないニュアンスや裏の意味、強いて言うならその言語体系の「行間」が、その空間を作ります。それは、文法や単語の表面的意味だけでは作られない巨大で抜かりのない空間です。
言葉が作る「空間」は精神を支配する
相手からひどい言葉を耳にしながら育った世代は、当然のように、そのひどい言葉を口にするようになります。それがどんどん広がって、社会レベルまで広がってしまうと、「そんなひどい言葉を使ってはいけません」と指摘する人がどんどん少なくなっていきます。下手をすると、「使ってはいけません」と指摘する人のほうが、「皆は使っているのになぜ使うなと言うのか。あなたは『ひどい』人だ」と言われるでしょう。
その空間の力は、想像を超えます。人の善悪の基準すらもひっくり返せる力が、込められています。単に単語の羅列からは想像もできない様々な効果を及ぼし、その空間の中の人々の精神を支配します。その空間に支配されている領域の人たちが、その空間から抜け出すのは、なかなか大変です。
さらに、大人たちによって決められたその空間の中で生まれ育った子どもたちは、その空間が「実は歪められたもの」という事実にすら気づくのが難しいでしょう。その空間にいる時間が長ければ長いほど、抜け出すのは難しくなります。他の国に引っ越しても、自分で歪みに気づかないかぎり、その呪縛から解き放たれるとは限りません。