敬語は「主従」ではなく「優しさ」の表現方法
「そういうものは敬語的な表現であり、敬語ではないのでは?」と反論することもできます。
しかし、私はこう思っています。「敬語がない言語でも、敬を示すための使い方はいくらでも出来る。敬語がたくさんあっても、敬を示そうとしない言語の敬語システムは、いずれ崩壊する」。
前者のほうが、ずっと心地の良い会話ができるのは、言うまでもないでしょう。敬語は「主従」ではありません。敬語は、「優しさ」です。実際に使わなければ、意味がありません。使うからといって減るものでもありません。その優しさもまた、社会を包み込み、その空間を相応の感覚で満たします。その空間で育った人は、いつのまにか優しさの言葉を口にします。
外国人労働者が嘆く「敬語を使わない韓国人」
外国人労働者への差別とか、そういう問題もあるでしょう。暴言を浴びせられることもあるでしょう。韓国語には「ヨク(辱)」といって、低俗で攻撃的な言葉が非常に発達しています。そういうヨクにやられた経験があると、韓国語が好きになるなんて不可能でしょう。
でも、本稿で述べたいのは、そういう極端な場面ではありません。もっと一般的な会話でのことです。少し、経験談を紹介します。
私が大学生だった頃、学校の近くにあったコンビニで働いていた、ある東南アジアの外国人労働者の方は、いつも自分自身のことを「トライ(バカ)」と言っていました。周りからしょっちゅうそう呼ばれるので、そういうことにした、と言います。「はい、私はバカです」と言うと、まわりの皆が喜ぶというのです。
彼は、「韓国ドラマを見ると、本当に敬語が多い。私も、韓国人に敬語いっぱい使う。でも、なぜ私に敬語を使う韓国人はいないのだろう。きっと、私がバカだからだよ」と話していました。それがきっかけで、似たような事例をネットで探してみましたが、その結果、思ったより大勢の外国人が、同じ疑問を抱いていることがわかりました。
外国人、社会的にあまり高い地位ではない、韓国社会で「いわゆる外国人労働者」としてひとくくりにされている人たちの場合、特にそうです。「私の国の言葉は韓国語ほど敬語がいろいろあるわけではないものの、『敬』としての表現を受けることはできた。しかし、韓国にはあんなに多くの敬語があるのに、韓国に来てから『敬』の表現を受けたことがほとんどない。これはどうしてなのか」。
彼らとて、最初のうち、韓国語を単語単位でやっと覚えようとしていた頃は、韓国語の敬語の多さに驚きます。でも、韓国生活に慣れて、文章としての韓国語と、そのニュアンスが分かるようになればなるほど、「敬」は見出せなくなってしまうのです。