明確な説明のない「お願い」
実は、この北海道新聞記者は、同じ問題意識から7月30日にも質問をしている。その際の要旨は図表2のとおりだ。
ここもすれ違っているのがお分かりいただけるであろうか。
質問と答弁を対応させた場合、「政策が効果を発揮していないのではないか」の問いに、菅首相は「感染者が増えた原因はデルタ株である」と答えている。「いつ収束させるのか」の「when」の質問に、「総力を挙げてワクチン接種をやる」と答えている。特に、五輪については、はい/いいえ、で答えることのできる質問であるが、論点をずらして、聞かれてもいないテレビ観戦の話をしていることがわかる。
この2度にわたる北海道新聞記者の質問のポイントは「毎回政策を打ちだしているが、効果は出ているのか。PDCAを回しているのか」という点にあるように私は思う。その上で、先が見えない状況が「いつ終わるのか」(when)を聞いている。
しかし菅首相は2回とも質問に全く答えず、論点をずらしている。一般の視聴者であっても、こうした“すれ違い”が続くため、首相の言葉に違和感を覚えるのは当然だろう。事態に改善が見られていないようにも見えてしまうし、自粛や行動制限を「お願い」されても、国民から共感や納得は得られるはずがない。時間の経過とともに支持率が低下していったのは必然的であったと言える。
そもそも、なぜ菅首相はこの評判の悪い“言葉遣い”を続けたのだろうか。私は菅首相が記者会見で読み上げる官僚が作った文章(答弁書)に最大の問題があると考えている。その文章は、「霞が関文学」と言える官僚作文の特有の技法がある。
「霞が関文学」という守りの美学
霞が関文学とは、一言で言えば「守りの美学」である。
ロジックはこうだ。ほころびのある論点で深掘りをされると、旗色が悪くなる。深掘りされると回答がない。だからその論点は回避したい。ただ、直接回避をするとよくないので、答えているように振る舞い、自分のアピールできる論点に滑らかにつなげる。
最後の、「自分のアピールできる論点に滑らかにつなげる」がミソである。
このテクニックはなにも官僚の専売特許ではない。私たちの日常会話でも見られる。例えば、恋愛感情を抱いた相手の気持ちを確かめようと「私のことどう思う?」と尋ねるシーンを想像してほしい。相手が、本当に自分を好きであれば、シンプルに「好きだよ」と答える。
しかし明確に答えられない事情があればどうだろう。
回答する側は「たいして好きじゃない」とは言いにくい。「わからない」では旗色が悪い。よって「君といるのは楽しいよ」と一見ポジティブで無難な回答を選ぶだろう。