サイパン島には日本から直行便で数時間。島内には多くの戦争遺跡が残る。彩帆香取神社もある(イラスト=iStock.com/Danler)

日本の委任統治領だったサイパンの戦いにおける日本人の戦没者は、約5万5300人にのぼった。厚生労働省によれば収集できた遺骨は約3万柱で、いまだに約2万6000人分の遺骨が地中に眠っている。

サイパン島の北部には、追いつめられた多数の日本兵や民間人が身を投じことから、スーサイドクリフと呼ばれるようになった絶壁がある。その下に建てられた中部太平洋戦没者の碑の供花台に、2人は白菊の花束を捧げた。

さらに日本兵や民間人が「天皇陛下、万歳」や「大日本帝国、万歳」と叫びながら自決したバンザイクリフにも足を運び、青い海へ向かって黙礼した。

バンザイクリフからは80メートルも下の海へ、1万人が身を投じたという。明仁天皇は断崖だんがいに立ったときの気持ちを次のように詠んだ。

「あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり」

「天皇の島」ペリリュー島への訪問で語ったこと

戦後70年となる2015年4月8日には、日本から直線距離にして南へ約3200キロ離れたパラオ共和国を訪れた。

美しいサンゴ礁の島、ペリリュー島。島内には防空壕跡や戦車、洞窟などの戦跡が数多く残っている(イラスト=iStock.com/Danler)

それまでドイツの植民地だったパラオは、第一次世界大戦後には日本の委任統治領となった。

パラオを形成する主要な島のひとつ、ペリリュー島も太平洋戦争の激戦地の一つだ。日本兵1万200人、アメリカ兵2336人が命を落とした。日本兵の遺骨約2400柱がまだ発見されていない。

長くて4日とアメリカ軍が想定していたペリリュー島の戦いは、最終的にアメリカ軍が占領するまでに74日もの時間を要した。島全体の地下にまるで迷路のように広がる洞窟を要塞化した日本軍が仕掛けた、徹底したゲリラ戦が戦局を長期化させ、アメリカ軍にも多大なる犠牲を払わせたからだ。

想定外だった奮闘が大本営を喜ばせたのか。ペリリュー守備隊には、大元帥の昭和天皇から「お褒めのお言葉」である御嘉賞が11度も与えられた。

いつしか「天皇の島」と呼ばれるようになったペリリュー島を、平成の天皇皇后はパラオ滞在2日目に訪れた。パラオへの出発にあたっては、ペリリュー島の戦いに対してこうお言葉を述べていた。

「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」

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