「彼らの力になりたい」
カンボジアでは、避難民を故郷に帰還させるプロジェクトで働いた。そこで、つらい目に遭ってきたはずの子どもや若者たちの笑顔やたくましく前向きな姿勢に感嘆。「これから自分たちで国を作っていく彼らの力になりたい」と思い、志願して現地滞在を1カ月延長した。さらに、いったん帰国した後、12月に自費で再訪。翌年の2月まで難民の支援を手伝った。
その間、縁あって、カンボジアと日本の貿易代行業を手掛ける企業から内定を得た。ところが、社長が「現地でなにか起きても会社に責任を問わない」と一筆書くよう倉田さんの両親に求めると、両親はそれを拒否。就職も破談になった。
「両親は、僕がカンボジアに行くことに最初からずっと反対していたんです。つい最近まで内戦していたような国ではなにが起こるかわからないと。兄が亡くなり、子どもが私ひとりになったので、心配だったんでしょう」
両親の不安は、的外れではなかった。同年4月、ボランティアとして国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に派遣され、選挙監視員を務めていた中田厚仁さんが射殺されている。この事件は現地にいる日本人に衝撃と恐怖を与えたが、倉田さんの熱が冷めることはなかった。
無償で学校に行ける環境を作るために
就職先を失った倉田さんに手を差し伸べたのは、最初にカンボジアに行く機会を与えてくれたNGOだった。大学卒業後はそこの事務局員となり、カンボジアでの学校建設プロジェクトに携わることになった。しかし、1年で退職した。カンボジアの現実を思い知ったからだ。
20年以上続いた内戦からの再建が始まったばかりの国では、国民が税を納める仕組みも、国が税を配分する仕組みも整備されていない。それでは、教師に給料が払えない。学校は、教師の給料を支払うために有料化されていた。
「無償で学校に行ける環境を作るためには、大人の所得が上がって、税金が納められるようになって、経済的自立をしないといけない」
そう思った倉田さんは1994年、プノンペンに事務所を設立。カンボジアでビジネスをするなら農業だと考えて、ひとり動き始めた。
「ポル・ポトがソルボンヌ大学時代に書いた論文には、水も土地も豊かで食べるに困らない国だと書かれています。それに、産業は時の流れで変化しますが、農業は人間が生きていく限り絶対になくならないので」
ドリアンとココナッツ
農業の素人だった倉田さんは、なにがビジネスになるのかを調べようとした。ところが、カンボジアの農産物の資料は戦禍で焼けて残っていなかった。次に日本の検疫情報を見たら、カンボジアの多くの作物の輸入が禁止されていた。そのなかで、検疫に引っかからないもののひとつが、独特の匂い知られるドリアンだった。
産地を訪ねて、その日の朝に採れたドリアンを食べた瞬間、目を見開いた。フレッシュなものは特有の匂いがしないうえに、その果肉は爽やかな甘みのカスタードクリームのよう。これは商売になる! と鼻息荒く築地の仲卸で働いている友人に連絡すると、30個を送ってほしいと言う。
倉田さんは採れたばかりの新鮮なドリアンを仕入れ、日本に空輸した。すると、すぐに完売。友人からは100個の追加注文が届いた。よし! 前のめりになった倉田さんは急いで100個のドリアンをかき集め、プノンペン空港に持っていった。その窓口で、ガックリとうなだれた。