兄の死、いじめ……生きる意味を探した少年時代
1969年、三重県津市で生まれた倉田さんには、絶対に忘れられない日がある。
1984年10月26日。
その2日前の24日が、15歳の誕生日だった。しかし、両親も、4つ離れた兄もそれをすっかり忘れて、なんのお祝いもされないまま誕生日が過ぎた。翌日も家族の様子は変わらず、怒った倉田さんは、夕食の時間に尋ねた。
「昨日、なんの日だったと思う?」
両親は慌てたが、兄は茶化した。兄の19歳の誕生日はちょうど1カ月前で、両親からバイクをもらい、みんなでお祝いをしていた。
「兄貴はみんなに祝ってもらったのに、俺の誕生日は忘れんのかよ!」
倉田少年と兄は取っ組み合いのケンカをした。そのまま仲直りもせず、迎えた10月26日の朝。その日、郵便局員をしていた父親は名古屋に出張、看護師の母親は慰安旅行でともに早く家を出ていて、兄も既にいなかった。その日は中間試験の初日で学校が早く終わり、帰宅すると家の電話が鳴っていた。出ると、警察だった。
「お兄さんがバイクの事故で亡くなった。事故現場の青山高原に行けますか?」
へ? 青山高原は倉田さんの自宅から車で2時間ほどかかる。気が動転したまま「両親は不在で、自転車しかありません」と言うと、「誰か親せきの人で車を出せる人いない?」と聞かれて、「当たってみます」と答えた。
それから親せきの車で事故現場へ急行。そこには、兄の遺体が横たわっていた。そこでどういうやり取りがあったのかわからない。なぜか、その場で遺体を引き取ることになり、後部座席に兄を横たえ、倉田さんが寄り添って帰宅した。
倉田さんは小学生の頃、激しいいじめにあっていた時期がある。あまりに理不尽な暴力に、「命がもたんかも」と思ったこともあるという。さらにあり得ない形で兄の死に直面したことで、「人はなんのために生きるのか」という疑問が頭から離れなくなった。
なぜ、こういう事態が起きたのか、後になって両親が警察や消防署に問い合わせたが、曖昧な返答しかもらえず、うやむやのままだった。
内戦から間もないカンボジアへ
生と死の意味について深く思いを馳せるようになった倉田少年の人生を変えたのは、1本の映画だった。高校1年生の夏休みに観た『キリング・フィールド』。カンボジア内戦下、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが行ったとされる暴挙、虐殺を描いた、実話に基づいた映画である。
どうしてこんな悲惨なことが起きるのかという疑問から、カンボジアの歴史や文化を研究し始めた。高校時代の自分を、倉田さんは「カンボジアおたく」と評する。
1浪して1989年、亜細亜大学の経済学部経済学科に入学した倉田さんは、大学2年生の時、アメリカで5カ月間、語学留学した。その最中の1991年1月、湾岸戦争が勃発。その時、アメリカ人の学生にこう言われた。
「日本は金だけ出してていいよな」
この一言で、頭に血が上った。
「君らは(戦地に)行かなくても、おれは絶対人的貢献しに行ってやる!」
翌月、留学を終えて帰国。奇遇にもその年の10月、フランスのパリで和平協定が結ばれたことで、およそ20年続いていたカンボジア内戦が終わり、復興に向けて世界が一気に動き始めた。倉田さんは非政府組織(NGO)のボランティアになり、1992年8月、終戦間もないカンボジアに向かった。