低い身分から公家の一員へ

そこで、秀吉は年貢と諸役を厳しくしようと税収の値上げを決めましたが、負担が増えると住人たちは反発するに決まっています。町の人々の声を聞いてか案じてか、ねねは政策転換に反対し、秀吉はいったんは決めた値上げを取り下げることにしました。

このように、ねねは、はっきりと発言する性格だったようです。ねねが、信長に安土城に招待された時のエピソードにもその様子がうかがえます。信長は、前回会った時よりも10倍も20倍も美しいとねねを褒め、「秀吉が、ねねに不満を持つなど言語道断。ハゲネズミに、これほど素晴らしい相方は、二度と見つけられないだろうから、これからは、自信を持ってふるまいなさい」とアドバイスします。その時信長は、「女なので意見を言うことについては分をわきまえるように」と言い添えるのも忘れなかったくらいです。長濱の年貢の引き上げに反対した時のように、ねねが秀吉に意見を言っているのを、信長は知っていたのです。

本能寺の変の後、勢力を伸ばした秀吉は、京都に脈々と続いてきた天皇家の関白、つまり天皇に代わって行政の権利をもつ官職につきます。しかし、秀吉は将軍職への着任は辞退しました。どうして将軍にならなかったのでしょうか。

理由はいくつかありそうですが、ねねにとって夫が関白になることは、将軍になることよりも有難い選択でした。実は、秀吉が関白になることにより得をするのは、妻のねねだったのです。秀吉の関白就任とともにねねは「北政所」という、もともとは摂関家の正妻に与えられる呼称を得るとともに、彼女は従三位という極めて高い官位につくことができました。ふたりとも元々は低い身分で、血統などありません。ですから秀吉が関白になると、ねねの社会的地位が公家の一員として目に見える形で確立されていくのです。秀吉が関白になり、ねねが北政所の称号で知られるようになった天正13(1585)年。ねねは推定で38歳、秀吉も数えで50歳くらいになっていました。

「母」だったねね

破竹の勢いで出世する秀吉は、陣中からもねねに手紙を送り続けます。戦況を逐一報告したりと筆まめな秀吉が気にしていたのは、ねねのことだけではありません。文面にはこんな部分があります。「五もじと八郎より小袖が届きました。とても気に入り、さっそく着ています。できる限り早く大坂に凱陣するようにしますので、ご安心ください。お目にかかり、お話をしましょう。」

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秀吉に小袖を送った五もじと八郎は、ねねと秀吉の養子です。五もじは、前田利家とまつの四女として生まれた豪のことで、彼女は秀吉に特に気に入られました。八郎とは、宇喜多直家の子供で、後に豪の夫となる宇喜多秀家です。この手紙が書かれた頃には豪も八郎も子供で、ねねと一緒に暮らしていたのでしょう。秀吉が、子を思う父の顔を見せています。

秀吉の姉の息子、のちの小早川秀秋も「金吾」という幼少名で呼ばれ、ねねと秀吉に大事に育てられます。養子といえば、戦略の一部として名目上の縁組のことが多いですが、ねねと秀吉の家のように実際に一緒に住んで育てられることもありました。ねねと秀吉には子供がいませんでしたが、養子・養女の縁組を重ねることで、ねねはたくさんの子供の母となったのです。