28歳で引退、新卒として入社試験を受ける

そんな東明さんは、2000年に現役引退を決断。間もなく29歳という若さだったが、「当時は30歳を過ぎて現役続行するという考え方はなかったですね」と、あまり葛藤を抱くことなく第二の人生を考え始めた。

プリマハムくノ一時代、1997年頃の東明有美さん=本人提供

そこで浮かんだのが、五輪やサッカーワールドカップなど数々のスポーツイベントのマーケティングや広告セールスを手掛ける国際的な巨大広告代理店・電通への入社だ。

「当時、大阪教育大学大学院に在籍していたこともあり、実家の親は地元に戻って公務員になって普通にお嫁に行き、落ち着いてほしいと考えていたようです。『人生をちゃんと考えろ』とよく言われましたから(苦笑)。でも自分は修士課程が終わったら、グローバルで幅広い仕事ができる電通に入りたいと考えた。何のコネもなかったんで、普通に新卒採用を受けました」

筆記試験はSPI(適性検査)だけ。続いて面接に呼ばれた。

「ちょうどケガをしていた時期で、面接の時は茶髪のまま松葉杖をついた状態で行って驚かれました。会社側は『こういう人間がいてもいいのでは』と考えてくれたのか、何とか引っ掛かり、2001年4月の入社が決まりました」

「出来の悪いワースト社員」挫折ばかりの電通時代

プリマハムくノ一時代は品質管理部に所属し、ハムの製造ラインに入るなどの仕事経験があった東明さんだが、世界的大企業である電通の環境は全く違った。同期150人で2カ月間研修を受けた後、熱望していたサッカー事業局に配属されたが、企画書の1つも満足に書けず、営業トークもまともにできず、上司に怒られっぱなしだったと打ち明ける。

プリマハムくノ一ではキャプテンとして活躍=本人提供

「日本サッカー協会(JFA)担当で、天皇杯や全日本女子選手権(現皇后杯)の広告パッケージを企業に売る担当になったのですが、全然話がまとまらない(苦笑)。特に皇后杯なんかは、今でこそWEリーグができる時代ですから興味を持つスポンサーもいますけど、20年前は全く関心を示してもらえず、お金を出してくれる企業を探すだけでも四苦八苦しました」

それでも、先輩がアプローチすると話が進むのに、自分がやると全く進まない。

「まさに力のない新入社員でした。それなのに『こんなはずじゃない』とどこかプライドの高いところがあり、人のせいにする傾向が強かったですね。結局、『使えない』となり、2年足らずでサッカー事業局から出され、営業で一から修業することになってしまいました」

営業部に異動してからは自動車広告などを担当。海外本社の意向とクライアントの考えをすり合わせるのには、かなり苦労した。

「上司から『お前は出来の悪いワースト社員だ』と言われたのはさすがにこたえましたね(苦笑)。電通では挫折ばかりの日々でした」

ただ、それでも気持ちを奮い立たせ、ボールに食らいつくかのごとく粘り強く仕事と向き合った。

「そうしてさまざまな経験を積んでいくと、だんだん落としどころが見えてくるんです。DFもゲームを読み、相手の決定機を未然に防ぐのが仕事ですが、『サッカーに似てるな』と思うようになりましたね」