*本稿は、野村克也『頭を使え、心を燃やせ 野村克也究極語録』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「叶わない」のではない、「叶える」のだ
よくぞ私は好きな野球を職業とすることができ、引退後も長らく関わり続けることができたものだ──。
人生を振り返り、素直にそういう思いが湧いてくる。というのは、何度も野球をあきらめざるをえないような状況に陥ったからだ。
子どものころから、将来はプロ野球選手になって貧乏から抜け出したいと考えていた。しかし、高校進学の際には母親から「義務教育を終えたら働きに出てくれ」と嘆願された。兄が大学進学をあきらめ、母親に高校進学を説得してくれたのでなんとか高校には進めたものの、今度はせっかく入った野球部がいきなり廃部になりかけた。「ろくに勉強しない生徒の集まりだ」というのが理由だった。
そこで私は、廃部の急先鋒だった先生を試合に招き、野球の魅力を知ってもらおうとした。先生と接触の多い生徒会長にも立候補して、野球のすばらしさを懸命に訴えた。その結果、廃部の憂き目は免かれた。
のちに、その先生が入団テストを受けられるよう、南海に紹介状を書いてくれたのだから、縁というのは不思議なものである。
誰にでも「考える」という才能はある
南海のテストを受けたのは、レギュラーになれる可能性がもっとも高いと踏んだからだった。レギュラーのキャッチャーが30歳代だったのだ。2~3年、私が二軍で力を蓄えたころ、ちょうど引退の時期を迎えるだろうと考えたのである。
もう一球団、広島も正捕手が30歳を超えていたが、当時の南海は若手の育成には定評があった。それで南海を選んだのだった。
プロ入り1年目のオフに解雇されかけたが、「南海電車に飛び込みます」と泣いて訴え、クビがつながった。また、はじめてホームラン王になったとたんに打てなくなったときには、データを集め、それを駆使することで乗り越えた。必死だった。
とりたてて野球の才能があったわけではない。私以上の天性をもった選手はほかにいくらでもいた。にもかかわらず、私が半世紀以上も野球の現場にいられたのはなぜか。
徹底的に頭を使い、知恵をふりしぼったからだ。どんな困難があろうと、高い壁にぶちあたろうと、決してあきらめずにその都度徹底的に考え抜き、試行錯誤したからである。