いまだ完成していない「中華民族」
しかしそれはあくまで、「中国」「中華」「民族」という翻訳漢語概念で思考し認識する漢族の納得できた概念・観念であって、漢語を用いない人々は共有はできないし、用いても共鳴できない立場の人もいるだろう。そうした多元性は清朝の遺制として、百年以上経過した今も鞏固に残存している。
たとえば日本人が「東洋史」という一種の世界史として観念する範囲は、中国人にとっては、自国史(ナショナル・ヒストリー)たる「中国史」にほかならない。これでは歴史認識・世界観はもちろん、立場も利害もかけ離れて当然ではある。現在は日本人にとどまらず、モンゴル人・チベット人も、漢語を使う「台湾人」「香港人」も同じだといって過言ではあるまい。
「中華民族」とは「中国」という一体化した国民国家を実現するために生まれた概念である以上、多元性(=分裂亡国)の克服が必要な時に叫ばれる。習近平がはじめて党総書記に選出された直後の2012年11月29日、「中国之夢」構想を発表し、その内容を「中華民族の偉大な復興」と説明したのも、その一環なのだとすれば、それはなお未完の事業だといってよい。
今年9月の演説で、新疆に「中華民族」としての「共同体意識」が欠如していることを表明したからである。それがさしあたって現状という「中国の歴史」の帰結なのであろう。