そのため本意だったかどうかに関わらず、複眼的に現状を容認、在地在来の慣例を尊重している。チベットの政教一体、モンゴルの部族制、漢人の皇帝制・官僚制をほぼそのまま、同時に踏襲しつつ統治を試みた。それが効を奏して、従前の多元勢力のカオス的な相剋を、秩序ある共存に移行させることに成功する。

清朝・東アジア全域はかくて、18世紀の平和を謳歌した。しかしその間も時代は動いてやまない。同じ18世紀に海洋のグローバル化を制して、軍事的・経済的な覇権を掌握した欧米列強は、まずは未曾有の経済力で、ついでは空前の軍事力で、東アジアを揺るがした。

清朝の旧版図を一体化する新しい概念

以後の「東洋史」は多事多端、18世紀後半の人口爆発、19世紀前半の内乱とアヘン戦争、19世紀末の対外戦争と義和団事変など、列強の関わらなかった事件はない。その過程で、漢人世界が膨脹し、各地の多元化はいっそう深まって、それぞれが外国と結びつくようになる一方で、明治日本を経由して漢語化した国民国家の思想が、漢人知識人に根づいた。

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やがてかれらは政権を掌握すると、国民国家のスタンダードから、従来の多元共存を分裂亡国につながるとみなして、東南の漢語世界と西北のモンゴル・チベット世界を一体化する体制変革に邁進する。

そこでテコになったのが、梁啓超の命名したChinaというnation-stateを指す「中国」「中華」概念である。その世界の中心という原義は、唯一無二・単一不可分のニュアンスを濃密に含み、清朝の旧版図はChinaという領域概念と重なり合って、一つの国家・一つの民族で構成すべきものと観念された。それを端的にあらわしたのが「中華民族」概念なのである。そのため、西北草原のモンゴル・チベット世界の住民であろうと、東南定住の漢人であろうと、「中華民族」であることには変わりない。

この概念は20世紀の前半、とりわけ日本との相剋が険しさを増すにつれ、くりかえしとなえられた。日中戦争のさなか、蒋介石の名義で出た『中国の命運』という書物にも、まず「中華民族」は「多数の血族が融和して構成される」と定義したうえで、その居住する清朝の旧版図は、どこも「分裂、隔離、独立できない」とする。「民族」はあくまで一つであって、それが「国家の命運」を決めるというプリミティヴな民族自決のナショナリズムにほかならない。