したがって「中国」というその中心は、たえず移動をくりかえしたし、そこが関わる範囲も伸縮して、多元的な勢力が織りなす歴史を形づくってきた。日本ではその来し方を「東洋史」と称する。

紀元前3世紀の末に、皇帝がその範囲を統一支配する体制が確立し、以後も継続するようになると、国号の「秦」「漢」がその範囲を指す地名として認識され、定着した。漢字・漢文の「漢」はいうまでもないだろう。「秦」のほうはChina=シナの語源となった。いずれも「中国」とちがって、れっきとした固有名詞である。

夕暮れの空と万里の長城
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多元的な勢力がせめぎ合うカオスの時代

13世紀に草原世界を制し、ユーラシア全域を統合したモンゴル帝国を経ると、世界史の構造はそれまでとは一変した。世界各地が有機的に結びつき合うグローバル時代に転化してゆく。14世紀まで陸上にあったその重心は、16世紀以降は海洋に移っていった。そのなかで日本列島も、大きな役割をはたすようになってくる。

かくて「東洋史」は、海洋とのつながりを深めつつ、草原での遊牧生活で軍事力・政治力に秀でたモンゴル・チベット世界と、農耕の生産力を高め、経済力に勝る漢人世界とが相剋を深めて、多元的な勢力がせめぎ合うカオスの時代を迎える。時に17世紀。

ここまでの歴史は、さきにふれた拙著『「中国」の形成』に先だつ岩波新書「シリーズ 中国の歴史」第1~4巻で詳細を知ることができる。

17世紀の前半は、中国の王朝名でいえば、明の末年にあたる。その内憂外患は名状すべからざる混乱に発展して、明朝を滅亡に追いこんだ。当時からそのプロセスは、一王朝の倒潰にとどまらず、「神州陸沈」つまり文明滅亡の危機とさえいわれたのである。

このカオスを収拾したのが、明朝と隣接対立していた清朝であった。1644年に明朝が滅んでまもなく、その首都北京に入った清朝は、およそ17世紀の終わるまでに、漢人が居住するいまの「中国本土(チャイナ・プロパー)」のみならず、隣接するモンゴル・チベットなど、東アジア全域を統治下に収めて、秩序と平和を回復する。

秩序ある共存を実現させた清朝

清朝を建国したのは、遼東に暮らしていた満洲人である。大陸東南の漢語世界と西北草原のモンゴル・チベット世界のはざまにあって、いずれとも深く関わりながら成長し、やがて双方に君臨する政権を建てるに至った。人口百万にも満たないスケールの集団で、一億以上の人々を統治しなくてはならない。清朝はそれだけに、自らの乏しい力量・脆い立場をよくわきまえていた。

南北の二元世界は、言語・文字も異なれば、信仰・習俗もちがう。そもそも乾燥と湿潤のように、気候風土・生態系もかけ離れているし、遊牧と農耕で生活習慣も同じでない。そんな多元的な個別の基層社会に統制・干渉を加える力量は、清朝にそなわっていなかった。