的を射た質問ばかりだし、打てば響くような理解力も素晴らしかった。首相経験者から若手までいろいろな政治家と話をしたが、「話が難しい」と上から目線の政治家もいれば、竹下登元首相のように自分をまず卑下して相手を立てて話題に入る政治家もいた。中曽根氏にはそういう上下の視線がまったくない。34歳年下の私の話を真剣に聞き入って何かを得ようと、若々しい気迫に溢れていた。

そんな中曽根氏だから、総選挙の戦い方をこちらから提案したこともある。

角栄氏がロッキード事件の第一審で有罪判決を受けたことで政治倫理が大きな争点となり、1983年の総選挙で自民党は単独過半数を割る敗北を喫した。中曽根氏は86年の総選挙で巻き返しを期したが、メディアの事前の票読みでは形勢不利が伝えられ惨敗の可能性すらあった。

彼らを投票所に駆り出せば自民党は圧勝

そこで私が提案したアイデアが「衆参ダブル選挙」だった。当時は投票率が下がり続けていて、組織票を持つ政党が有利な状況だった。投票に行かない有権者を分析すると、圧倒的に自民党支持が多い。「日本は変わらない」「自民党政権は永遠に続く」と思うから投票に行かないのであって、隠れキリシタンならぬ隠れ自民党支持者となっていた。彼らを投票所に駆り出せば自民党は圧勝できる。物理的に投票率を上げる秘策が衆参同日のダブル選挙だったのだ。本当は統一地方選も含めたトリプル選挙を中曽根氏に進言したが、「それは勘弁してくれ」とのことだった。

選挙参謀として自民党の区割りや候補者調整にも知恵を貸した。要するに選挙区ごとに綿密なマーケティング分析をした。中選挙区で複数擁立している自民党の一方の候補者が票を取りすぎると、2位に野党が入り「死に票」が発生する。自民党の得票が最大の議席数につながるように区割り調整まで提案させてもらった。この辺りの事情は『大前研一の新・国富論』に詳しい。

結果、86年の衆院選挙は自民党が304議席を獲得して圧勝、単独過半数を回復した。

中曽根政権後は、海部俊樹内閣のときに中曽根氏が目指した日米イコールパートナーを辱めるような外交が行われていた。私はそういう海部首相のことを『アメリカ政府霞が関出張所長』と揶揄して雑誌で批判したことがある。これを読んだ中曽根氏は相当喜んだらしく「久しぶりに飯を食おう」と連絡がきて、2人で海部首相の悪口を言って盛り上がった。

安倍前政権でも対米隷属で、中曽根氏以前の日米関係にすっかり戻ってしまったが、その現状に天上から中曽根氏の嘆息が聞こえてきそうである。

(構成=小川 剛 写真=AFLO)
関連記事
日本にとって「韓国の異常な反日」が大チャンスである理由
大阪都構想が2度も否決された「たったひとつの理由」
菅首相が学術会議人事で大ナタをふるった本当の理由
「#スガやめろ」と大合唱する人たちをこれから待ち受ける皮肉な現実
吉村知事、最後の独占インタビュー 勝ったら【大阪】はとんでもないことになるんです