もう1つ、角栄氏が大蔵大臣のときに初めて実行したのが国債の発行、つまり将来から金を借りることである。私は当時、大蔵省主計局の計画課長だった人に話を直接聞いたのだが、角栄氏が大蔵大臣に就任したその日を境に、「空の色が一変した」と彼は言う。それまで主計局の仕事は、各省の予算配分をコーディネートして歳入と歳出のバランスを取ることだった。

しかし田中大蔵大臣は「入ってくる金を使うだけでは成長できない。これからは使うことを先に考えろ」と指示したという。「繁栄して歳入が増えれば返せるのだから、将来から借りればいい」という発想は、日本列島改造論とともに成長期、人口ボーナス期の日本に相応しい見事なアイデアだったと思う。

その後に国の借金が膨らんだのは、成長期が終わったにもかかわらず、新しい国家運営の手法を見出せずに、「角栄モデル」を変更することなく引きずってきた後の政治家、役人の問題なのだ。角栄氏が今の時代に生きていれば、今の時代に相応しい施策を果敢に打ち出したことだろう。

国鉄民営化がなかったら債務は膨れ上がっていた

戦後の日本にとって重要なもう1人のリーダーは、角栄氏と衆院選初当選の同期で生年も同じ中曽根康弘氏である。初入閣から首相就任まで出世競争は常に大派閥の角栄氏にリードされたが、中曽根氏は20代の陣笠議員の頃から「総理大臣になりたい」という強い信念があった。首相公選制を最初に提起したのも中曽根氏だ。

ドイツの名宰相ヘルムート・コール元首相は、学生時代から自分がリーダーになって祖国統一を成し遂げたいと強く念じていてそれを実現したが、中曽根氏も似たようなところがある。出征と敗戦、占領統治を経験した中曽根氏の当初の政治目標は祖国再建であり、国家として真の独立を勝ち取ることだった。念願の首相に就任して強くこだわったのは、日米関係をイコールパートナーに持っていくことだった。

日米イコールパートナーなど、当時としては超背伸びした話で、それまではどちらかといえばアメリカに卑屈にへりくだるか、復讐心を押し殺すような態度の政治家が多かった。しかし体格的に見劣りせず、頭脳明晰で語学も堪能な中曽根氏は、まったく気後れすることなく諸外国とのリーダーと対等に渡り合った。ロナルド・レーガン米大統領(当時、以下同)との間で「ロン・ヤス」と呼び合うような信頼関係を築き、サミットの記念撮影ではレーガン大統領と肩を並べて中央に収まった。この写真は日本の国際的地位向上を内外に印象づける一枚になった。