人間が損することに生理的な嫌悪感を抱くのは脳のせい

生理的嫌悪としての損失回避

【岩澤】ここまでカーネマンたちのプロスペクト理論を説明してきましたが、要は、人はとにかく損をするということ、損をしてしまうと思うこと、これがとてもとても嫌いである、ということに尽きます。この点について、少し説明を加えましょう。

人間が損失に対して示す嫌悪感は生理的なものです。ゴキブリの形をしたチョコレートを差し出されて食べるように言われたときに感じるような、得も言われぬ嫌悪感、これと損失に対して感じる嫌悪感は同じ種類のものなのです。

実際、脳神経科学者たちの実験によると、ヒトが損失回避性向を示すときに活発化する脳の部位は、大脳辺縁系、特に「偏桃体(amygdala)」と呼ばれる部分です(※2)。それは情動、意欲、記憶など-いずれも「システム1(※)」の要素です-を司る部位であり、そして脳の中で、進化的に最も古い部位のひとつであるとされています。(※)システム1:脳の中で、速く、自動的に立ち上がる認知のシステムを指す。

※2 De Martino et al.(2006)を参照。De Martino et al.(2010)は偏桃体が損傷した患者が損失回避の性向を示さないことを実証している。

死の危険を回避する本能のなせるワザ

損失回避性向が脳の古い部位で示されるものだということは、それが進化の早い段階で脳に組み込まれたものであるということを示します。なぜ人間の脳の中に、早い段階で損失回避性向が組み込まれることになったのか、どなたか想像できますでしょうか?

【Q】損失回避というのは、死の危険を回避しようとする心から育っていったものだと思います。危険を察知して、それを避けて生き延びようとした人だけが生き延びることができたのでしょう。だからそういう心を持つ人が残っていったのだと思います。

【岩澤】おっしゃるとおりでしょうね。ジャングルに住んでいた頃の人間は、動物に襲われて死ぬ危険と隣り合わせで暮らしていた。死の危険を回避する強い衝動がないと、生き延びることができなかったでしょう。

そういう時代が長かったので、人間の心には死の危険回避、損失回避が深い次元で組み込まれている、そのように考えることができます。そして今でもそれは、時によって、我々を助けてくれる力になります(※4)。

しかし現代社会はジャングルと同じではないですから、「システム2(※)」を使って考えなければいけない局面も多いわけです。(※)システム2:脳の中で、推論などの高度な思考を司る認知のシステムを指す。

そこにおいて、我々の脳に深い次元で組み込まれた「システム1」が適合的とは限らないんですね。次にそのことを見ていきたいと思います。

※3 は友野(2006)。点線は著者が加筆。(図表2)。
※4 脳神経科学者のアントニオ・ダマシオらは、情動を司るとされる前頭葉が損傷した患者は、連続して同じギャンブルを行った場合、大きな損失の経験記憶が弱いために、繰り返し危険な選択を行う傾向があり、結果として最終的に大きな損失を被る可能性が高くなってしまうことを示した(Damasio 1994)。これはシステム1の働きがギャンブルで大きな損失を回避する役割を果たすことを示している。