武蔵の生きた江戸時代初期は、徳川幕府の天下によってすっかり平和になっていた頃である。武士が命がけで剣を交えた戦国の“熱い時代”も昔の話。もはや剣法に実戦での有用性は求められておらず、単なる武士の“嗜み”でしかなくなっていた。それだけに、体裁の良さばかりを形式的に示す流派が、いわば“高尚な習い事”かのように世間に持てはやされていた。
武蔵はそんな「剣法の形骸化」を嘆き、自分の二天一流だけは徹底した実戦主義なのだと、必死に訴え続けていたのだ。
辛い言い方をするなら、不世出の大剣豪・宮本武蔵は「時代遅れの男」だった。彼の実戦主義は、当時歓迎されることなく、彼は最後の最後まで、どこの大名家にも正規の仕官を果たせなかった。
そんな宮本武蔵が最晩年を過ごした終焉の地が、熊本だった。当地を治める細川家が大剣豪・宮本武蔵に敬意を表して、最晩年の彼を「客分」として受け入れ、余生を過ごさせてくれていたのだ。そうして武蔵は死の2年前から金峰山の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始め、書き上げてほどなく静かに死んでいった。
つまり『五輪書』とは、武蔵の無念の涙でつづられた遺著でもあった。我々がビジネスという“戦いの現場”にその教えを生かす時、宮本武蔵の魂は、だからきっと慰められることだろう。