“Speach”を演説と訳したのは福沢諭吉だ。(三田演説館:慶應義塾大学=写真)

今でも慶應義塾大学の三田キャンパスに重要文化財として残っているが、諭吉は明治8(1875)年に三田演説館をつくった。この建物は、文字通り、日本で初めての演説会場である。諭吉は渡米時に弁士が皆の前で演説するという光景を目の当たりにしていた。口下手な日本人をなんとかして人前でしゃべらせるようにしたかったに違いない。

また諭吉は「交詢社(こうじゅんしゃ)」という日本初の社交クラブもつくっている。国際人に必要なジェントルマンとしての振る舞いを日本人にも植えつけようとしたのだ。外国を見てきた諭吉だからこそ持てた問題意識といえよう。諭吉の教育は、慶應義塾という学校にとどまらず、世界を見据えた広い視野に立っていたのだ。

昭和59(1984)年、福沢諭吉は1万円札の肖像に選ばれた。次の総理が、早稲田大学出身の竹下登さんだったから「今度10万円札をつくるときは、大隈重信ではないか」などといううわさも立ったことを思い出す。

僕が決めたわけではないから、諭吉が1万円札の肖像に選ばれた理由は、想像なのだけれども、中曽根康弘総理(当時)は日本国の基礎をつくった人を称えたいと素直に考えたのではないだろうか。アメリカでもヨーロッパでも大抵、ジョージ・ワシントンだとか、クイーン・エリザベスだとか、国民が親しみを持ちつつ、崇め奉るような人物が選ばれている。

諭吉は、今1万円札の中から現代日本をジッと見つめている。諭吉はどんなことを考えているのだろうか。僕はきっと怒っていると思う。

明治初期、産声を上げたばかりの近代日本は、ちょっとしたきっかけであっという間に、欧米列強に吸い尽くされて滅びてしまう。諭吉の著書から伝わってくるのは、そんな強い危機感だ。

今の日本の姿も諭吉の目には同じように映っているに違いない。諭吉が生きていれば、世界を見据えて日本のために働ける人材をつくろうとするだろう。自ら考え、独立自尊を愛する、合理的で軸のぶれない人物だ。