福沢諭吉:1834~1901。大阪生まれ。明治の啓蒙思想家。父は中津藩の下級武士、緒方洪庵に蘭学を学ぶ。万延元(1860)年幕府の遣米使節に。著書に『福翁自伝』など。

1万円札の中できっと怒ってる

福沢諭吉が独特な存在だったのは、政治の世界に入ろうとしなかったことだ。当時の時代状況を考えても、日本を変えるためには政治の世界に入ったほうが手っ取り早かった。

薩長土肥に代表される、幕末に名前を売った尊皇攘夷運動や討幕に加わった人物のほとんどは、明治政府に参画した。征韓論で下野した西郷隆盛のような例もあるけれども、日本のあり方を憂えた人物の多くは政治家になっていた。大久保利通、伊藤博文、板垣退助もそうだ。

福沢諭吉が多くの政治家と親交を持っていたことはハッキリしているけれども、政治家になろうとした素振りは全くと言っていいほどない。「あいつら政治家は威張りくさって、蓄財し、その金で妾を持って、とんでもない」と考えていたに違いない。『福翁自伝』を読んでもこうした記述に出くわす。

例えば福沢諭吉は、生涯妾を持たず、四男五女をもうけた。妻以外の女性には指一本触れていないとも言われている。

エネルギーを余計なことに使わず、言論活動や、慶應義塾の創設などの教育に力を注いでいく。

教育では今の言葉でいう「国際人」たる人材を養成しようとする決意があった。外国に行って外国かぶれになるのではなく、日本をよくするために国際的なレベルでものが言える、ものを考えられるような人材を育成しなくてはならない。

40歳を過ぎてから、大きな事業をいくつか始めている。

明治15(1882)年、「時事新報」という新聞社をつくった。これにはいろいろな経緯があるが、まず大久保利通や大隈重信などの首脳が、政府に都合のいい御用新聞をつくろうと考えていた。しかし明治14年の政変で大隈が失脚し、頓挫した。そこで、政府系新聞をつくるために準備していた記者や印刷機械をうまく活用し、福沢諭吉は慶應義塾で独自に新聞を発行した。

福沢諭吉は、御用新聞とは180度異なった、天下国家を論ずるニュートラルな新聞を目指した。発刊から大正期に至るまで大部数を誇ったこの新聞で彼が主眼に置いたのは「輿論(よろん:公共的な意見)の喚起」ということ。