岩崎弥太郎:1834~85。56年、少林塾に入塾。69年、九十九商会設立。72年、三川商会設立。73年、三菱商会設立。74年、三菱蒸汽船会社設立。

「謎」の6年間に悪事をしていたのか

近代日本とともに歩んだ「三菱」
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近代日本とともに歩んだ「三菱」

弥太郎は迷っていたと思う。私がそう考える根拠のひとつは、彼が後藤象二郎に宛てた手紙に、「何とか東京に出たい」「自分には別の夢がある」ということを繰り返していることである。「別の夢」がなんであるのか具体的にはわからないが、東京に行くとすれば、新政府に官職を得ることが先ず思い浮かぶ。

面白いことに三川商会のときにも、弥太郎は自分を代表者にしてない。代表として名前があるのは川田小一郎と、石川七財と、中川亀之助。3人とも川の字が付くために、三川商会を社名としたという言い伝えがあるほどだ。

社名の由来については、異説もあるが、いずれにしても弥太郎は形式的には商会の代表者ではなかった。実際には弥太郎が経営していたことは間違いないのだが、いつでも逃げられる支度はしていたようだ。大阪で藩営事業を継承した事業家になるという決断はつきかねていたのだろう。この点については、歴史家・伝記作家などに諸説があるが、それほど弥太郎の行動には「謎」が残る。そのために、この時期についてさまざまな憶説もある。

三菱財閥の基盤となるような財をこの時代に築いたのではないかとするものがその代表で、維新政府が全国統一貨幣制度を制定する改革を推進することを、政府筋からいち早く情報を得て巨万の富を得たとされている。

新政府が各藩の藩札を買い上げるとの情報を後藤から得た弥太郎は、外商から借りた10万両の資金で大量の藩札を買い占め、新政府に売却して莫大な利益を得たとされる。

しかしこの逸話には全く証拠がない。弥太郎が土佐藩の事業として藩札の交換に携わったのは事実だが、この頃はまだ土佐藩の九十九商会の時代で、「三菱財閥」につながるようなビジネスを行っていたわけではない。その収入を私物化できるような構造ではなかった。

この手の怪しげな話はそれこそ枚挙にいとまがなく、例えば幕末期に海援隊の船が紀州藩の船と衝突、沈没するという事件があった。海援隊は当時のお金で7万~8万両の賠償金を紀州藩から受けとる約束になったが、実際には海援隊ではなく、賠償金を弥太郎が預かり、これを開業資金に独立したという話である。この話も、先述の話と同様に根拠はない。

明治7年、三菱商会の拠点を東京に移す前後には、弥太郎はようやく迷いが消えたように仕事に邁進する。貿易を中心とし、海運を付随業務とする「ビジネス」を核にして、多様な業務に着手する。吉岡銅山(岡山県)の買収や紀州での石炭採掘に着手するのもちょうどこの時期。儲かりそうなことなら手当たり次第に手をつけようとした形跡がある。

三菱商会事業の中心となった海運は現実には当時の民間事業者の中では二番手の地位にいた。トップは御用会社の帝国郵便汽船であり、40隻ほどの汽船を所有していた。

三菱は5隻か6隻程度だったからその差は埋めがたいものだった。帝国郵便汽船は、国内沿海の海運業において支配的な地位を占めており、弥太郎は汽船を増やす資金がないこともあって、ゆっくり事業を拡張していった。これが明治6年から7年にかけての時期だ。

明治7年、三菱に、台湾出兵という大きな転機が訪れる。当時の政府トップは大久保利通だった。その大久保の下にいた大隈重信は台湾出兵の裏方として奔走した。大隈が当初考えていたのは、日本の沿海に進出していた、アメリカやイギリスの海運会社を臨時にチャーターして兵士や軍事物資を台湾に送ることだった。

しかし、英米両国とも、清国との外交関係に配慮し中立を宣言して船のチャーターを断ってきた。大隈はやむをえず、政府の金で中古船を買って輸送にあてようとし、その運行を帝国郵便汽船会社に委託した。

しかし、帝国側は乗り気でなかった。その理由は、重要なビジネスチャンスだという認識はあったはずだが、台湾出兵のために自社船を投入してしまうと、独占的地位を保っている航路の顧客を三菱などに取られるのではとの懸念があったからだった。

このような経緯から政府は三菱に頼みこんだ。船がほぼ無償で払い下げられたこともあり、海運事業から大きな収入が転がり込む。その後、明治10年の西南戦争での軍事輸送を請け負ったときにも三菱の船舶量が急増する。明治7年まで10隻足らずだった三菱商会の汽船は、台湾出征のときに40隻以上に増加している。西南戦争のときには大型の汽船だけで40隻になった。

三菱の海運力、海上輸送力が瞬く間に肥大化し、海運業者として形が整う。

明治8年、第一命令書で政府による補助が決まるが、そのときに三菱商会は郵便汽船三菱会社と社名を変える。命令書には、公業として会社組織を整備することと兼業を禁止することが定められていた。

政府は、援助を与える代わりに、江戸時代から続いていた商家のような前近代的な経営形態を、公的な役割を担うにふさわしい企業組織へ改革することを求めた。これに対して弥太郎は、興味深い行動をとる。荷為替金融業務や商船学校(現在の東京海洋大学)といった事業など、海運業務に付随したものは郵便汽船三菱会社を組織してこの事業とした。他方で、鉱山経営や造船所、政府債などの証券売買といった投資活動の自由を得るために、それらをすべて個人名義のままとした。