「謎」の6年間に悪事をしていたのか
近代日本とともに歩んだ「三菱」
弥太郎は迷っていたと思う。私がそう考える根拠のひとつは、彼が後藤象二郎に宛てた手紙に、「何とか東京に出たい」「自分には別の夢がある」ということを繰り返していることである。「別の夢」がなんであるのか具体的にはわからないが、東京に行くとすれば、新政府に官職を得ることが先ず思い浮かぶ。
面白いことに三川商会のときにも、弥太郎は自分を代表者にしてない。代表として名前があるのは川田小一郎と、石川七財と、中川亀之助。3人とも川の字が付くために、三川商会を社名としたという言い伝えがあるほどだ。
社名の由来については、異説もあるが、いずれにしても弥太郎は形式的には商会の代表者ではなかった。実際には弥太郎が経営していたことは間違いないのだが、いつでも逃げられる支度はしていたようだ。大阪で藩営事業を継承した事業家になるという決断はつきかねていたのだろう。この点については、歴史家・伝記作家などに諸説があるが、それほど弥太郎の行動には「謎」が残る。そのために、この時期についてさまざまな憶説もある。
三菱財閥の基盤となるような財をこの時代に築いたのではないかとするものがその代表で、維新政府が全国統一貨幣制度を制定する改革を推進することを、政府筋からいち早く情報を得て巨万の富を得たとされている。
新政府が各藩の藩札を買い上げるとの情報を後藤から得た弥太郎は、外商から借りた10万両の資金で大量の藩札を買い占め、新政府に売却して莫大な利益を得たとされる。
しかしこの逸話には全く証拠がない。弥太郎が土佐藩の事業として藩札の交換に携わったのは事実だが、この頃はまだ土佐藩の九十九商会の時代で、「三菱財閥」につながるようなビジネスを行っていたわけではない。その収入を私物化できるような構造ではなかった。
この手の怪しげな話はそれこそ枚挙にいとまがなく、例えば幕末期に海援隊の船が紀州藩の船と衝突、沈没するという事件があった。海援隊は当時のお金で7万~8万両の賠償金を紀州藩から受けとる約束になったが、実際には海援隊ではなく、賠償金を弥太郎が預かり、これを開業資金に独立したという話である。この話も、先述の話と同様に根拠はない。
明治7年、三菱商会の拠点を東京に移す前後には、弥太郎はようやく迷いが消えたように仕事に邁進する。貿易を中心とし、海運を付随業務とする「ビジネス」を核にして、多様な業務に着手する。吉岡銅山(岡山県)の買収や紀州での石炭採掘に着手するのもちょうどこの時期。儲かりそうなことなら手当たり次第に手をつけようとした形跡がある。
三菱商会事業の中心となった海運は現実には当時の民間事業者の中では二番手の地位にいた。トップは御用会社の帝国郵便汽船であり、40隻ほどの汽船を所有していた。
三菱は5隻か6隻程度だったからその差は埋めがたいものだった。帝国郵便汽船は、国内沿海の海運業において支配的な地位を占めており、弥太郎は汽船を増やす資金がないこともあって、ゆっくり事業を拡張していった。これが明治6年から7年にかけての時期だ。
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