岩崎弥太郎:1834~85。56年、少林塾に入塾。69年、九十九商会設立。72年、三川商会設立。73年、三菱商会設立。74年、三菱蒸汽船会社設立。
<strong>東京大学経済学研究科教授 武田晴人</strong>●1949年生まれ。72年、東京大学経済学部卒業。81年、同大学助教授。88年、同大学経済学博士。91年、同大学教授。96年、同大学大学院経済学研究科教授。近著に、『日本経済の事件簿』『日本人の経済観念』
東京大学経済学研究科教授 
武田晴人 
1949年生まれ。72年、東京大学経済学部卒業。81年、同大学助教授。88年、同大学経済学博士。91年、同大学教授。96年、同大学大学院経済学研究科教授。近著に、『日本経済の事件簿』『日本人の経済観念』

2010年1月から、NHK大河ドラマ『龍馬伝』が放送される。ドラマの内容は「岩崎弥太郎から見た坂本竜馬」という視点で描かれる。

岩崎弥太郎は「三菱財閥の創始者」として広く知られている。しかし多くの史料が非公開であったことや、記録に乏しい「謎」の期間があり、さらに晩年に激しいマスコミ批判を浴びたこともあって、虚像がつくり上げられてしまった。公金を私物化して自分の事業の基礎を築いたという芳しくない評価が下されたこともあったが、冷静に歴史的な資料を読んでいくと、その実像はだいぶ違っていることが明らかになってきている。

弥太郎と竜馬は同じ幕末土佐藩の出身とはいえ、実際の接点はきわめて少なかった。2人が会ったことが確認できるのは、弥太郎が藩命で長崎に赴いた慶応3(1867)年3月のことで、竜馬が暗殺されるわずか半年ほど前だった。半年という短い期間に、藩の仕事上のうえで対立しながらも、弥太郎は竜馬を助ける役割を果たすという関係にあった。

もっとも両者の関係は悪かったようで、竜馬は弥太郎を嫌っていたはずだ。

それには、2つの理由がある。

第一は、お金の問題。海援隊の事業資金を要求する竜馬に、弥太郎は藩の資金が底をついているため出し渋った。

第二は両者の価値観の違い。慶応3年7月、長崎でイギリス人水兵が殺害される事件が起き、土佐藩士に疑いがかかった。当時イギリス公使パークスが幕府に直談判して、あわや生麦事件(1862年、薩摩藩の島津久光の行列に騎馬に乗ったまま通過しようとしたイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した)の再来かという緊迫した状況に至る。

長崎奉行から事件取り調べのため、長崎に滞在中の土佐藩士に足止めの命令が下った。ところが海援隊の船が、その足止め令を無視して商用を理由に出港してしまった。海援隊が犯人を逃亡させたとの疑いから土佐藩は窮地に陥った。

結局、事件は証拠が見つからず迷宮入りとなった。ただし命令を無視され体面をつぶされた長崎奉行は、土佐藩と海援隊に謝罪を命じる。濡れ衣だと主張してきた竜馬ら海援隊は、そんな命令に従う必要はないと譲らなかった。他方、長崎で土佐藩を代表していた弥太郎はあっさり謝罪してしまった。

この弥太郎の姿勢を竜馬は弱腰だと非難している。幕府だろうとイギリスだろうと「何するものぞ」と考えていた竜馬と、謝って済むのであれば謝って、事態を収拾させてしまうのが藩としては得策と考える弥太郎の対照的な性格がよくあらわれたエピソードだ。