慶應義塾大学をトップの成績で卒業する人は、幼稚舎、小学校、中学校から入学した、いわゆる内部進学の生徒が多い。世界で活躍するピアニストの中村紘子さんやバイオリニストの千住真理子さんも内部進学だ。
反対に、どこかに行方知らずになってしまう人、スレスレの成績で卒業するという人も内部進学の生徒だ。いいと悪いが両極端にわかれてしまう。一方、大学から入ってきた人は、大抵が凡人で、月並みな成績で無難に卒業していく。
なぜそんなことになってしまうのか。その原因は、福沢諭吉が導入した一貫校教育にある。
明治時代、大隈重信の早稲田大学や、東京帝国大学をはじめとして立派な大学がたくさん誕生した。数ある学校の創始者の中で、諭吉だけは、このころからすでに一貫校教育に目をつけていた。
明治7(1874)年という段階で慶應幼稚舎をつくっている。自分の口では語っていないが、小さいころからの英才教育というものを諭吉は重要だと思っていたに違いない。
僕は、昭和17(1942)年の4月1日に慶應義塾普通部(現在の慶應中等部)に入学した。当時は、太平洋戦争の真っ只中だった。詰め襟に半ズボンで中学の半分を通った。それが次第に、カーキ色の教練服を着ることが増えていった。父兄会の途中に米軍による空襲警報が鳴り始め、騒然となったこともあった。
普通部には40~50人のクラスが5つあった。A、B、Cクラスの大部分が幼稚舎からの進学組で、普通部から入学したものは10人ほど。D、Eのクラスは全員が普通部からの入学組だった。
幼稚舎の6年間、みんな同じクラスで同じ担任の先生がずっと面倒をみている。だから、あいつは1年生のときに授業中に寝小便をした、みたいなことをみんな知っている(笑)。隠し事もなにもできない。
普通部から入学した僕は、クラスに打ち解けることができるか不安だった。しかし、実際にクラスへ行くと、みんな愉快なやつばかりで、今でも付き合っている友人の半分くらいは幼稚舎の出身だ。一生の財産を手に入れることができたと思っている。
戦争の最後には、三田や日吉の校舎は焼けてしまった。しかし、それでも戦争後の日本で総理大臣や立派な経営者を輩出できた理由は、きっと諭吉の持つ「人づくり」への意思にあったのだと思う。
慶應義塾では、勉強をしろとか、プレッシャーをかけられないし、受験勉強もしなくていい。一貫校教育という長い期間で、のびのびとその人の持っている才能を伸ばすことができる半面、勉強をしないとどこまでも成績が落ちていく。
僕が在学していた当時の塾長・小泉信三先生から教わった福沢諭吉の言葉に「気品の源泉、智徳の模範」というものがある。決して優等生だったとはいえない僕の胸に、今でも刻まれている言葉だ。
では、諭吉が13~14歳のころ、一体どんな人だったのだろうか。『福翁自伝』には、少年時代のとても象徴的なエピソードが描かれている。
ある日、諭吉少年はお稲荷さんにお参りをした。諭吉は、普段みんながありがたがり、一方では畏怖の対象でもあるお稲荷さんの中に何があるのか、見てみたくなった。扉を開けると、石ころが入っていた。そして、諭吉は石ころを捨ててしまった。
しかし、祟りは一切起こらなかった。諭吉の人生を貫く合理主義的な思考や行動が非常によく表れている。「独立自尊」という思想にしても、物事を自分なりに解釈する、という点ではこのころからすでにその下地はあったのだろう。