自分には夢がある何とか東京に出たい!

弥太郎は天保5(1834)年、土佐藩の地下浪人(「郷士の株」を売り農村に住居する下級藩士)、岩崎弥次郎の長男に生まれた。青年時代、土佐藩の重鎮で一時的に失脚状態にあった吉田東洋が主宰する少林塾に入門する。弥太郎を長崎の主任に抜擢し、明治維新後も重要な知己となる後藤象二郎が兄弟子になる。

吉田の考え方は、貿易を開いて殖産興業をすることを重視するというものだっ藩が他の藩に対抗できる国力をつけるにはどうするか、という視野の狭さがあった。弥太郎にもその影響があり、とにかく藩財政の事情が優先された。

その一方で、竜馬は、日本という国をどうつくるかという、より大きな考えをもっていた。公武合体派の後藤などとともに土佐勤王党と距離のあった弥太郎と、新時代を見据えていた竜馬の違いだろう。

慶応3(1867)年から弥太郎が主任となっていた土佐藩の商務組織「開成館」の長崎出張所は、明治元(1866)年に閉鎖される。弥太郎は大阪の開成館出張所に移った。開成館の業務内容は、長崎でも大阪でもあくまで土佐藩のための特産物貿易や兵器輸入、外商からの資金調達だった。弥太郎は、藩の財政を支えるためにこの業務を任され、急速に頭角をあらわした。弥太郎は「経済官僚だった」という表現がぴったりくる。

明治2年、大坂の出張所を九十九(つくも)商会と改称した弥太郎は、藩命により藩所有船による海運業も始めた。廃藩置県で藩官僚の地位を失った弥太郎は、九十九商会の事業を継承して独立し、明治5年1月に三川(みつかわ)商会をつくり、これが明治6年に三菱商会に衣替えする。したがって、三菱の本格的なビジネスの創業はこの「三川商会」だとするのが定説である。

しかし、土佐藩開成館の主任として「有能な経済官僚」だった弥太郎の姿と、三菱商会以降、真の意味での「ビジネスリーダー」となっていく彼の姿とには、まだ大きな隔たりがある。この明治初めの数年間については記録が少ないこともあって謎が残っている。

私は、弥太郎が実業の道をいつ選んだのかという点に興味をもっている。もともと腰の据わらない迷いの多い男が、ようやく藩士として自分の居場所を見つけたところだったから、方向を転換してビジネスの世界で生きていくという決心をするのには、時間が必要だった。いつ決断したかを確定するのは難しいが、九十九商会の頃には、まだ土佐藩の藩士としての地位を受け入れていた。

(松山幸二=構成 渡邊清一=撮影)