「スクラムハーフ」らしき動きを仕事に反映

ラグビーと組織の親和性を取り上げる上で外せないのは、宿沢広朗である。

宿沢は1950年に東京都日野市で生まれた。最初のスポーツは野球だった。富士電機の準硬式野球部の監督を務めていた父親の影響である。中学校まで野球部、埼玉県立熊谷高校に進学してからラグビーを始めた。小柄な宿沢は野球選手としての将来を見限っていたのだ。

そこで宿沢は「スクラムハーフ」というポジションに出会うことになった。スクラムハーフの役割は、常にホールのいる位置をとり、ボールを奪取した後、攻撃につなげる。ボールをバックスに展開するのか、フォワードに渡して突進させるのか、自分で運ぶのか、蹴るのか、状況を判断して最適な攻撃方法を選択しなければならない。判断力、俊敏性が要求され、小柄な選手が多い。

宿沢を主人公としたノンフィクション『宿澤広朗 運を支配した男』(講談社)で加藤仁はこう書いている。

〈高校生の宿澤が「スクラムハーフ」に活路を見いだしたことは、その人生を左右するほどの重要な選択であった。それは生まれついての資質であり、「ラガー」としての習い性でもあったと思うが、銀行員になってからも「スクラムハーフ」らしき動きが仕事におおいに反映され、仕事哲学にまで高められたのではないのか。ビジネスの局面はつぎつぎと進展していく、ぼんやりしていると手遅れになりかねない。どのようなときでもボールを前へすすめなければ、得点するチャンスは生まれないというラグビーの鉄則は、銀行という職場においても宿澤に時間の無駄づかいをさせることなく、「いま、なにをすべきか」を考えさせ、つねに「スクラムハーフ」のように動くよう仕向けた。瞬発的な判断によって立ちむかわなければ勝機は訪れないという「スクラムハーフ」経験が全身に染みこんだ〉

スクラムハーフのSIDである。

宿沢は熊谷高校から早稲田大学政治経済学部に進学、ラグビー部に入る。早稲田大学2年、3年時、それぞれ新日鐵釜石、三菱自動車京都を破り、2年連続日本選手権優勝を成し遂げた。

73年、住友銀行に入行、新橋支店に配属された。

宿沢が入行したとき、住友銀行にラグビー部は存在しなかった。しかし、日本代表に選ばれていた宿沢の所属に名前を入れるため、急遽きゅうきょ、ラグビー部が創部されている。入行から半年後の秋に日本代表としてイギリスとフランス遠征に参加。2年目にもニュージーランド遠征に選ばれている。しかし、現役生活は長く続かなかった。彼は銀行員としての出世階段を軽やかに駆け上がっていったのだ。

銀行員をしながら、日本代表監督に就任

77年、ロンドンへ赴任。金融の本場で為替ディーラーとして結果を残した。そして日本に帰国後の89年、宿沢は銀行員としての業務をこなしながら、日本代表監督に就任した。異例の抜擢ばってきだった。宿沢の指導歴は新橋支店時代、早稲田大学のコーチをしただけだ。

この年の5月、宿沢の率いる日本代表は強豪である、スコットランドとのテストマッチに勝利した。1971年の初対戦から初めての勝利だった。番狂わせ、である。しかし、試合後、宿沢は「お約束どおり勝ちました」と口を開いた。彼はスコットランドを徹底的に分析し、勝てるという確信を持っていたのだ。宿沢は91年にイギリスで行われた、第2回のラグビーワールドカップを最後に監督を退いた。この大会で日本代表はジンバブエ戦で1勝を挙げ、ワールドカップ初勝利を記録している。

89年、41歳のとき大塚駅前支店の支店長に就任。その後、同期に先駆けて役員に昇進している。

しかし、輝かしい栄光と勝利に包まれた彼の人生は突然、幕を下ろすことになる。2006年6月、登山中に心筋梗塞を発症し急逝。まだ55歳だった。