フルバックは変人が多い

他人と力を合わせて、チームのために貢献することを意気に感じるようでなければ、運動能力を持っていたとしても、フォワードは務まらない。

一方、平尾はバックスは〈気ままなひと〉が多く、最終ラインに位置するフルバックは特に〈変人が多い〉とも語っている。平尾もフルバックの選手である。

ぼくは週刊誌の編集者時代に今泉清に取材したことがある。彼は、早稲田大学、サントリー、そして日本代表のフルバックでもあった。彼の話は脱線しがちで、ついつい超常現象に向かった。取材後の神保町の焼肉屋でも同じだった。ぼくは面白くて耳を傾けたが、インタビュアーだった中村裕は、完全に聞き流す、あるいはその手の話題を冷淡に断ちきって、話の筋をラグビーに戻した。早稲田大学ラグビー部で今泉の先輩にあたる中村はその辺りの事情を熟知していたのだろう。

ぼくらの身体修行論』(朝日新聞出版)では平尾の対談相手の内田が、ラグビーの成り立ちから、このスポーツの競技の本質を看破している。

〈ラグビーの発祥は、ラグビー校というイギリスのパブリックスクールから始まったわけですよね。サッカーもそうですが、長いこと貴族の子弟というか名家の子どもたちというか、将来的にイギリスの支配階級になる子どもたちが習得すべきものとして、いくつかのスポーツがパブリックスクールでは必修化されていた。(中略)言わず語らず、無言のうちに「せーの」で瞬間的に全員の細胞の並びがそろうみたいな、そういう共同的な身体運用の能力を、こういうスポーツでは開発していたんじゃないでしょうか〉

ノーサイドの精神「本質は世界をどう支配するか」

ラグビーの目的は、組織のための身体運用の能力、肉体の鍛錬であって、試合の勝敗ではないと内田は読み解いている。

その発露が“ノーサイドの精神”である。

これらパブリックスクール同士の交流試合では、試合後、両チームが入り交じり、パーティが催される。試合が終われば、敵味方、肩を組んで仲良くすべきだというのが、ノーサイドの精神である。これを“イギリスらしい紳士”の証明であると考えるのは間違いだと内田は指摘する。

〈紳士どころか、あのひとたちは要するに帝国主義者ですから。帝国主義者のゲームだから、グラウンドでの試合なんかでいちいち勝った負けたと騒ぐなよ、ということだと思うんです。彼らにとって喫緊の問題は「世界をどう支配するか」ということなんですから、そのための基礎的な能力をラグビーやサッカーを通じて訓練しているわけです。
これから世界を支配しようというのに、イギリス人同士で勝った負けた、何点差だったなんて、がたがた言っている場合じゃないだろう、と。とにかく、今日のラグビーの試合でわれわれはまた一段と帝国主義者としての統治能力が向上したわけであるから、これをさらに植民地統治に生かしていこうではないか、というような、よく言えば「スケールの大きい」動機でラグビーをやっていたはずなんです〉