監督のオファーに言葉を詰まらせた
それに対して私は、誰の眼にも分かりやすい成果を残していません。
ヤクルトスワローズに在籍した1984年から90年までの7年間で、チームはリーグ優勝を果たせませんでした。本塁打王、最多勝、新人王などの個人タイトルを獲得する選手がいるなかで、私自身はゴールデングラブ賞を1度獲得しただけで終わっています。プロ野球選手としての日々を履歴書にまとめるなら、自己アピール欄に書き込めるものはほとんど見つけることができません。
そんな私が、監督に? すぐに返答できるはずがありませんでした。言葉は出ないまでも、頭のなかでは断りのフレーズが列をなしていきます。
沈黙を破れない私に、吉村GMが言いました。
「栗山さん、命がけで野球を愛してやってくれれば、それでいいのです」
天祐というものに恵まれることがあるならば、まさにいまこの瞬間ではないだろうか。それまで暗闇に立ち尽くしていた私は、頭のなかに明かりが灯ったような気がしました。
野球を愛する気持ちは身体を太く貫いている
野球人としての私の経歴が足りないものばかりなのは、吉村GMも、彼以外の球団職員も、間違いなく分かっている。それでもファイターズがチャンスをくれたのは、私が野球に注いできた情熱を、もしかしたら評価してくれたのだろうか。
野球を愛する気持ちは、私の身体を太く貫いている。野球への愛こそがファイターズの監督に求められる最優先事項なら、ひるまずに飛び込んでいっていいのではないだろうか、と考えたのです。
成績だけを見れば、就任1年目は成功と言えるかもしれません。パシフィック・リーグを1位でフィニッシュし、リーグ上位のチームによるクライマックスシリーズも制して、読売ジャイアンツとの日本シリーズに臨んだのです。残念ながら日本一になることはできませんでしたが、新人監督が最低限の責任を果たしたことで、周囲は安堵したかもしれません。
しかし、私自身は自己嫌悪に苛まれていました。