ブレクジット騒動にあらわれるアイデンティティ

【小倉】僕の本業はジャーナリストで国際情勢を日夜追いかけているわけですが、今回の取材を通してイギリスとヨーロッパの関係について改めて認識したことがあります。それは、イギリス人は自分たちが「大陸ヨーロッパとは違う」ということを常に主張したがるということ。そのひとつが言葉です。イギリスはラテン語やフランス語、ドイツ語などの影響を受けながら、そのどれでもない独自の言語を確立しました。いまでこそ英語はグローバル言語ですが、かつては辺境の言葉でした。

いま、ブレクジットをめぐってイギリス国内は大混乱になっていますが、これも「大陸ヨーロッパとは違う」という強いアイデンティティのあらわれだと思います。イギリスにおける近代の英雄、チャーチル首相も「イギリスはヨーロッパ合衆国“とともに”発展する」という言い方をしています。「ともに」というところがポイントですね。ここにイギリス人のアイデンティティがあるんです。ブレクジット騒動の裏には長い歴史と文化があることを押さえておかないと今の状況は理解しにくいでしょう。

【河野】イギリス国内での議論の混乱を見ていると、2016年の国民投票が「EU離脱に賛成」という結果に結びついたことを含めて、人々が「誰の言葉を信じたらいいのか」分からなくなっている状況が非常に厳しく問われているように思います。出口が見えないなかで、言葉を整理しながら政策のメリットとデメリットを分かりやすく伝えてきちんとした議論の土台を築いていくことがメディアに求められているように思いますね。

「社会の分断」は日本でも緩やかに起きている

【小倉】メディアにとって非常に難しく、かつ重要な課題です。「社会の分断」という現象がイギリスだけでなくアメリカでも、そして日本でも緩やかにではあるが起こっている。イギリスの場合は階層社会が残っていることもあって、より極端です。たとえば高級紙といわれるタイムズやガーディアンを購読している層と、サンやデイリー・メールなどの大衆紙を読んでいる層は、くっきり分かれていて、互いに何を考えているのか理解していません。お恥ずかしい話ですが、僕もロンドンで暮らしていた頃にはEU離脱を求めている人がこれほど多いことに気付かなかった。そんなわけはないと思い込んでいたんです。

【河野】日本ではまだイギリスほどの分断は訪れていないとは思いますが、危険がぱっくりと口を開けて待っているような気配はあります。グローバル化の中で経済格差が広がり、都市と地方に暮らす人たちの間で不満や不信感が想像以上に高まって勢いがついた結果、ブレクジット騒ぎがもたらされた。他人事として眺めている場合じゃないですね。日本はまだ多少とも保たれている中間層を大事にしていかないと。そのためには近景だけでなく、他者のこと、全体のこと、将来のことを考える想像力がますます必要になってくると思います。

【小倉】100年かけてやる仕事』を通じて僕が伝えたかったのも、そういうことです。自分のためだけではなくて他人のために、目先のリターンだけでなく先の世代に役に立つことをこつこつとやってきた人々の姿から何かを感じとってもらえたら嬉しいです。

小倉 孝保(おぐら・たかやす)
毎日新聞編集編成局次長
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。他の著書に『大森実伝』(毎日新聞社)、『ゆれる死刑』(岩波書店)、『三重スパイ』(講談社)などがある。
河野 通和(こうの・みちかず)
ほぼ日の学校長
1953年、岡山市生まれ。編集者。東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。1978年~2008年、中央公論社および中央公論新社にて雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。09年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。新潮社にて『考える人』編集長を務めた後、17年4月に株式会社ほぼ日入社。著書に『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)、『「考える人」は本を読む』(角川新書)がある。
(構成・撮影=白鳥美子)
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