誤った測定が正確という前提になる危険性
加えて、注意しないといけないのは、意思決定のベースとして利用するデータが歪んでいる場合である。いったん数値化されると、その計算プロセスの信頼性を議論することなく、正確な測定値であるという前提で検討が進んでしまう。
『天地明察』(冲方丁著、角川書店)は、徳川光圀と会津藩藩主保科正之の命を受け、改暦に取り組む安井算哲(渋川春海)の物語である。暦は、農民を含めた多くの人々がそれに基づいてさまざまな行動をとる生活基盤である。例えば、田植えにしろ稲刈りにしろ、不正確な暦にしたがって行われるとすれば、収穫量にも大きな影響を与えることになる。しかし、当時利用されていた宣命歴は、その採用から800年が経過して歪みが生じており、正確な暦の採用(改暦)の必要性を幕府は認識していた。
しかし、暦に関する利権(たとえば、暦を専売する利益は、約70万石もあったといわれている)を握っていたのは朝廷を支える公家であり、改暦の動きは既得権益の喪失につながるかもしれないというおそれもあったため、数々の抵抗に遭うことになる。確かな天文観察と測量に基づいて安井算哲が宣命暦よりも正確であると推奨する授時暦に対しては、それが元寇の国である元の暦であり、不吉であるという的外れの批判にも直面した。暦をめぐる利害関係者には、神道家、仏教勢力、儒者、陰陽師などがおり、改暦をめぐっては、利害が複雑に交錯していた。
算哲は“巧みな方法”、つまり、複数存在する暦(宣命暦、大統暦、授時暦の三暦)のいずれがもっとも正確なのかを五番勝負で競うという「イベント」で民衆の心をつかみ、社会の大きな関心事とすることに成功する。最終的には、算哲の推奨する授時暦も最後の「蝕」予測を外すことになるが、算術家の関孝和の助言により、元と日本との地球上の位置(経緯)の違いが原因であることに気づき、後に正式に採用されることになる大和暦を完成させたのである。