余震と煙

チームは医師を含めて5人。車は米子自動車道から中国自動車道、そして名神自動車道と高速道路で東に向かっている。途中、ペットボトル飲料、使い捨てカイロ、カロリーメイトなどの携帯用食糧を購入した。仙台医療センターに到着したのは、翌日の16時になっていた。

仙台市は電気、ガス、水道が停まっており、携帯電話も通話規制が掛けられていた。一帯の災害拠点病院である仙台医療センターも、天井の一部が落下、壁が崩れ、受水槽、高架水槽が損傷しており、貯水機能が失われていた。帰宅可能な患者は家に戻し、手術待機患者も一時退院という措置を執り、緊急医療体制が敷かれていた。

森はこう振り返る。

「余震がすごくて、遠くでなにか燃えているのか煙が上がっていたり。身の危険を感じました」

森は、DMATで教わったことを頭の中で念仏のように反芻していた。

――まずは自分の安全、そして現場の安全を確認すること。それからゴー。

この日の18時、森たちとりだい病院チームは近隣の避難所の一つ、仙台市七郷小学校に入っている。

避難者の診察と回診

七郷小学校は仙台市の東部、若林区にある1873年創立の公立小学校である。

仙台市は震度7を計測。海岸線から約5キロの場所にある七郷小学校の校区は、東部有料道路が壁となり、津波の被害は限定的だった。しかし、隣の荒浜小学校地区は津波の壊滅的な被害を受けていた。

地震の直後から荒浜地区の住民が七郷小学校に避難しており、その数は1500人を超えていた。なかには近隣の老人保健施設の入所者も含まれていた。体育館は、文字通り足の踏み場もない状態で、教室も避難者のために開放していた。

森たちは保健室を救護所として、体調不良者の診察を行い、さらに老人保健施設の入所者たちを中心とした回診も行っている。

前日の夕方には雪が降っており、底冷えがした。電気が通っていないため、石油ストーブが頼みの綱だった。

「現場でホテルなどは取れないです。泊まるところは(避難所として使われていた)体育館の中。床で寝てました。食糧も自分たちのを持って行っていました。現場で活動して、いかに(避難者に迷惑を掛けずに)完結して帰ってくるか。それがDMATの役割ですから」

翌朝6時まで七郷小学校、その後、とりだい病院の先発隊と合流して仙台医療センターで活動を行っている。

森はこの日の18時まで仙台に滞在。米子に戻ったのは14日の深夜1時半のことだった。