所有することにこだわらなかった

父という人は物の所有には一切こだわらない人であった。信じ難いような実話であるが、我が家の応接間に来られた客人が、壁に掛けてある絵画や骨董品の類に感心してじっと眺めていたり、あるいは口を極めて褒めちぎったりすると「これは君にあげましょう」と言って、母や私に作品の入っていた箱をお蔵から出してくるようにと命じたことが幾度となくあった。

母が慌てて、「あれは作家の先生ご本人から頂戴した貴重な品ですよ。本当にいいんですか!」と小声でささやいても、「いいからすぐにケースを持ってきなさい」と言ってきかない。私がぐちゃぐちゃ言うと、「早くしなさい!」と客人の前で叱られたことも一度や二度ではない。

こうした時には、“いえいえ、お気持ちだけで結構です”とか、“こちらのお宅で拝見させていただいただけで十分です……”と言って、まずは辞退するものと思っていたのだが、そんな人はほとんど皆無であった。

娘の友人男性にも自分の時計をプレゼント

またある時は、以前から私が好ましく思っていた男性が、大学四年生の時に拙宅へ遊びに見えた。そんな時に父が突然帰って来て、偶然父も彼と話をする機会があった。突然の父の登場に彼はビックリ仰天しつつも就職先が決まったばかりですと緊張した面持ちで、自己紹介を兼ねて話をした。

すると、父は即座に「そうか、それはおめでとう! それではこの腕時計を私からの就職祝いとして君にあげよう」と言って、腕にはめていた時計を彼の目の前に差し出した。あまりに唐突な出来事に彼は驚愕し、「結構です。結構です」と後ずさりせんばかりであったが、父は「いいから持っていきなさい。君の新しい人生のスタートだ。就職祝いだ!」と言い残して、サッサと奥の部屋へ行ってしまった。

彼はまだ父の体温の残っているその腕時計をテーブルの上に置いたまま、動転した様子でじっと眺めていたが、父と入れ替わりに入ってきた母が、「主人の気持ちですから、受け取ってくださっていいんですよ」と笑顔を浮かべながら言葉を添えた。彼はその言葉にハッと我にかえったような表情をして、深々と頭を下げて大事そうに受け取ってくださった。

“ハハーン、我が両親も彼のことを悪からず思ってくれていたんだな”と直感した。

今や時も過ぎてお互いに何人かの孫もいる。そんな彼に偶然出会う機会があったのだが、さすがに時計のことは咄嗟に言い出せなかった。あの時の時計の運命や如何に……と思うこともある。