私が転職してきた当時は女性の4年制大学志向が強まっていく途上で、昭和女子大はその流れに乗り切れていませんでした。何か手を打たなければいけないことは明らかでしたが、どんな組織でも、よそから来た人間がいきなり大きな改革を行うのは難しいものです。まずは自分でもやれそうなことを1つずつ実行していくことにしました。
その第一歩が認証保育所「昭和ナースリー」の設立です。世田谷区では保育園に入れない待機児童が1万人を超え、大学の教職員も子どもを預けられず困っているという声を聞いたので、私が理事長となってNPO法人を設立し、大学に来て3年目の2006年に開園しました。定員はわずか25人。小泉政権の「待機児童ゼロ作戦」で17万人分の予算を獲得した頃に比べ、ずいぶんなスケールダウンでしたが、前の仕事を懐かしがっていてもしかたがありません。周囲に認めてもらうには、こうした「小さな成功」のエビデンス(根拠)を重ねていくことです。
女子大就職率、8年連続1位
学長に就任したのは翌07年、ちょうど60歳のときです。学長としてまず行ったのは、学生部の就職指導担当部署を独立させて「キャリア支援センター」をつくり、学生の就職支援を強化することでした。
私は「これからは女性も仕事を持って働く時代」と考え、それを実現することが自分の使命と考えてきました。良妻賢母志向が残る本学では、私の考えは当初違和感を持たれたと思います。キャリア支援センター開設にも反対はありましたが、私は「4年も勉強させたあげくに『NEET』では、親御さんが困るでしょう」と押し切りました。
支援強化の結果、学生の就職率は上昇し、今では卒業者数1000人以上の全女子大中、8年連続で就職率1位です。「出口」を立て直したことで入り口にも人が集まり始め、大学の経営は大きく好転しました。
次に手をつけたのが大学の国際化です。09年に人間文化学部の中に国際学科をつくり、13年にはグローバルビジネス学部を開設、17年には人間文化学部から英語コミュニケーション学科、国際学科を分離して国際学部を創設しました。
教員の任期制や学生評価制度も導入しました。これにも反対があったので、「給与や待遇には反映させません。みなさんの能力向上のための仕組みです」と理解を求めました。
60代の強みは、ネットワークにあり
60歳近くになって新たな世界に転ずることは、決して楽なことではありません。しかし一方でエキサイティングなことでもあります。