北方領土には多くの日本の「お寺」があった

私が色丹島を訪れたのは2013年8月のことであった。色丹島は根室・納沙布岬から北東におよそ70kmの距離に位置する長方形の島である。島全体が丘陵地帯になっていて、湿原が点在する。そこは高山植物や日本でも絶滅した動植物が存在し、実にダイナミックで美しい情景が広がる。いまだ、多くの日本人が目にしたことのない絶景である。北方領土問題が解決した曉(あかつき)にはきっと、この地が世界遺産に登録されることになるのではないか。

(上)色丹島・穴澗湾をのぞむ
(下)色丹島の日本人墓地で手を合わせる元島民

その原風景に、かつての日本人のムラの痕跡が残されている。日本式の建物は全て壊されて存在しないが、「墓石」だけはしっかりと残されている。墓があるということは70数年前まで、人々の「弔い」があったことを意味する。実際、北方領土には多くの寺院があった。

北方領土における仏教寺院の歴史は明治初期、北海道開拓使の時代までさかのぼる。

明治政府主導による北海道開拓が進むに従い、本州からムラ単位で入植。その際に、寺院・神社が一緒にくっついていった。

宗教施設は、移民のコミュニティを強化する役割であり、故郷の象徴でもあり、開拓中に死んでいったムラ人の弔いの場になった。この点、明治時代以降に行われたブラジルやハワイへの移住と同じ構図である。

北方領土では浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗など計24の寺院(無人の地蔵堂などを含む)が建立されたとの記録がある。択捉島にある博物館には梵鐘が展示されていた。現在、北方四島には寺院の堂宇を支えた基礎や石垣などが、わずかに残されているだけである。

色丹島はかつて浄土宗の大本山・増上寺の寺領だった

墓地のまわりに広がるムラの風景は、日本の面影はまったくなく、ペンキでカラフルに塗られたロシア人住居が、異国情緒を漂わせている。

それでも1964年から続けられている墓参事業(北方墓参、ビザなし交流)は、元島民にとって極めて大切な行事である。これは、北方領土に残された先祖代々の墓に手を合わせたいという元島民の願いを、人道的立場に沿って旧ソ連が受け入れたものだ。

戦後73年間、実効支配されている地とはいえ、「和の存在感」を示しているのが日本人の墓なのである。墓石には没年や戒名などが漢字で刻まれている。墓石は、いくらロシアが、自国領であることを主張しようとも、そこがかつては日本固有の領土であったことを、国際的にも証明しているのだ。

実はこの色丹島。驚くべきことに過去、私の所属する浄土宗・大本山増上寺の寺領であったのだ。私は色丹島の墓地を訪れた時、三つ葉葵の家紋が刻まれた墓石を確認している。これは徳川家の菩提寺である増上寺の寺紋である。

少し島の歴史を振り返って説明する必要がある。